都江堰は川西平野(成都平野の西部)を流れる岷江の中流地帯に当たり、現在の都江堰市の西にあります。2250年前に建てられた都江堰は今でも大きな治水の役割を果たしており、現存する水利施設としては最も古いもので、川の中に堤を築いて水を分流させています。川西平野は都江堰の恵みを受けて、「水旱従人」(水害と旱魃の被害を避けて、人間の思うままに治水できるという意味)の「天府の国」(資源に富み物産が豊かなところ、四川省の別称)となっています。
岷江は揚子江上流の比較的大きな支流で、源を四川省北部の山間地帯に発しています。かつて、春と夏に山津波が発生すると、大量の水が灌県という所から成都平野に流れ込みました。当時の川は狭く、両岸はたびたび洪水に見舞われました。洪水が治まった後、河床の所々では洪水が運んた砂と石で埋まりました。さらに、東へ流れる岷江は灌県の東にある玉塁山に流れが遮られていたことから、西岸では水害に見舞われるのに対し、東岸の住民は旱魃で悩んでいました。四川の人々に幸せをもたらすため、「都江堰」は秦の昭襄王の51年(紀元前256年)から、当時の蜀郡の太守(地方長官)李冰とその息子二郎が指揮して、築かれました。
都江堰のポイントは岷江を成都平野に流れ込む支流と揚子江に流れる支流に分流させることにあります。成都平野に流れ込む支流は、洪水を防ぎ、灌漑用の水を耕地へ引き入れるという二重の役割を果たしています。都江堰のメイン工事は「魚嘴(ぎょし)」、「飛沙堰(ひしゃえん)」と「宝瓶口(ほうへいこう」という三つの部分からなっています。
魚嘴という分水堤が岷江中流の最高点にあり、岷江を内江と外江に分けます。内江の河床は外江より低いことから、渇水期には岷江の水を6割耕地に引き入れ、増水期には4割しか引き入れません。曲がった形に築かれているこの魚嘴によって、砂の少ない表面の水が内江に、砂の多い底の水が外江に流れるようになっています。これは現代の流体力学の理論と合致しています。
飛沙堰(ひしゃえん)は見た目には非常に平凡な工事ですが、ほかの工事が取って代わることはできず、成都平野が水害に見舞われないための鍵となっています。飛沙堰は内江の河床より2.15メートル高く、内江の水位を維持する役割を果たしています。稀に見る大洪水に見舞われた場合、飛沙堰は自動的に崩れ、大量の水を岷江に流れ戻すことができます。また、名前どおり飛沙堰は砂や石などを外江に飛ばし、内江が滞りなく流れるようにすることが確保できます。
「宝瓶口」は玉塁山で切り開かれた山峡で、その幅は20メートルしかありません。内江から流れてくる水は宝瓶口になだれ込み、増水期は水位が徐々に高くなるはずですが、飛沙堰に調節され、その水位を一定の水準に維持できます。
当時、四川の人々は李氷親子を記念するため、「崇徳祠」を建造しました。その後、宋代に李氷が、元代に李氷の息子・二郎が「王」と崇められたことから、「崇徳祠」は「二王廟」と 改名されました。(担当:姜平)
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