北京の故宮博物院は中国最後の二つの王朝、明、清時代の皇帝の住まいだったことは皆さんもよくご存知でしょう。今回の番組でご紹介する場所は故宮にありますが、普段の観光ツアーでは、なかなか行くことが出来ないかない場所です。それが故宮の宝物館です。
宝物館は故宮の東部の寧寿全宮にあります。3000年前に清の年老いた乾隆皇帝が過ごすために建てた宮殿です。中は6つの展示室になっており、面積は2200平方メートルあります。
ここに展示されている宝物は、ほとんど一個しかなく、その価値は金銭で計ることができないということです。昔、皇帝やその家族に使われたものは、主に、造弁処という皇室に所属する工場のようなところで、皇帝の指示によって、各地から職人を集めて作られたのもだということです。また、地域の役人かたのも貢物(みつぎもの)もあります。どれも金や銀、玉、翡翠、真珠、宝石などで巧妙に作られたもので、当時の手工芸の粋を集めた芸術品です。
これら芸術品の多くは宮廷の生活用品で、皇室の尊厳さと豪華絢爛さが醸し出されています。代表的なものといえば、金の蓋と托を持つ白玉杯で、カップ全体は傷の入ってない白い玉石で作られ、金の托に咲いた白い蓮の花のようです。実はこの宝物館には、このような玉細工ものがたくさんがあります。これら玉細工は全部中国の玉石の名産地、新疆の和(門の中に真と書く)から集めたもので、玉石だけでも極上の品です。和(門の中に真と書く)玉で最もいいものは水からすくい上げたものです。見た目のも潤いがあり、質も綿密で、油が塗られたような光沢があります。
もう一つ、この宝物館に展示されている瑪瑙杯も絶品だと言われています。カップの取っ手は可愛い小怪獣の形をしていて、怪獣の前足をカップの縁にかけ、口がカップに近づき、中の物を味わいたいが人に見られるのを怖がっていて、気づかないうちに、尻尾がカップの下に抑え込まれたように作られているようです。職人の遊び心が感じとれました。
ここ宝物館にある多くの文物は、その起源を調べられなくなったものも多いのですが、中には年代が経過しても記録資料がしっかり残されているものもあります。それは「田黄三連印」です。田黄というのは中国福建省原産の石で、色がくすんだ黄色をしていて、その中には天然の沈殿物があります。篆刻には絶好のものです。昔から、「一両田黄三両金」、つまり、一両の田黄は三両の黄金の価値があると言われています。石だけでも十分高価ですし、この「田黄三連印」の珍しいところは三つの印鑑がチェーンで結ばれ、しかも、この三つの印鑑とチェーンは全部一つの石で作られています。その原石の大きさとどのようにして彫刻したのかが興味あります。清の乾隆皇帝が印鑑を収蔵する趣味があって、この「田黄三連印」は乾隆皇帝の1000点余りの収蔵品の中で最も好まれていたものだそうです。後、その子孫が収蔵し、清の時代の最後の皇帝、ラストエンペラ溥儀が故宮から追放されてからもいつもこの印鑑を持っていたということです。
昔、皇帝の近くにいた女性の生活ぶりに興味を持つ方が多いのではないかと思います。皇帝に選ばれた女性はどのような美人なのか、また、皇帝の側にいる女性は、どのうような生活を送っていたのかについて、謎が多いのです。ここ宝物館には、昔、そういった女性の生活ぶりを垣間見るものがたくさん残っています。その中に、なんと皇帝がお妃に発行した結婚証明書みたいものがあります。皇帝の女として守らなければならない仕来りなどを漢語と満州語で書かれています。また、皇后や妃たちが使ったアクセサリー類も多く展示されています。その中で、世間では稀に見るサファイア、真珠、重さ十数カラットのダイヤモンドの指輪などもありまして、どれも連城の璧です。また、明の時代の皇后が使用した冠があります。各種の宝石とカワセミの羽毛が飾られているこの冠は、皇后の証明にもなります。宮廷では女性でも身分によって、衣装までも区別がありました。例えばイヤリングでも、三つの真珠があるものは皇后しか身に着けず、一般の妃は一個の真珠のイヤリングしかつけなかったそうです。
宝物館には清の末期、あの西太后が晩年住んでいた楽寿堂があります。部屋はエナメルと色彩豊かな上絵で飾られ、故宮の中で最も住み心地のいい場所となっています。現在、この中に大きな玉石に彫られた「大禹治水玉山」という展示物があります。これは高さ2メートル近く、重さ5トンほどある玉石の彫刻品です。この玉石彫刻に使われた石は新疆原産のもので、二百年前に新疆から北京まで運ばれてから、また、当時玉細工の技術が進んでいた南の揚州に運ばれ、彫刻が終わってから、再び、故宮へ運ばれたわけです。その年月は前後あわせて、10年間もかかったそうです。
実はこの宝物館の北東隅の目立たない庭に、「珍妃井」という井戸があります。清の光緒帝に寵愛され、西太后に憎まれた珍妃が溺死した井戸です。1900年、光緒帝の維新を支持した珍妃は政権の違う姑の西太后にこの井戸で溺死させられたのです。女性も宮廷の戦いに巻き込まれ、悲しい結末を迎えたことはどこの国の歴史にあります。
|