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中国料理の発展歴史(その三)
   2005-05-18 15:32:50    cri

漢代と言えば、仏教がインドから伝わったのもこの頃で、東西文化の交流を促したシルクロードが切り開かれたのも、漢代です。シルクロードによって、西から、キューリ、胡麻、クルミ、玉ねぎ、コショー、人参、トマト、ほうれん草といった野菜や調味料、食用油が伝来し、同時に、ブドー、ザクロ、スイカなどの果物も伝来し、人々の食生活はますます豊富になって行きます。こうした中で、料理もこれまで以上に増え、品質も大きく向上しました。

更に西晋、南北朝時代から、隋や唐の時代にかけて、調理技術は、たんなる技術から、学問化へと大きな飛躍をとげます。

西晋の何曾若は『安平公食学』という著書を出版し、南北朝時代には、虞棕の『食珍録』、謝諷の『食経』といった、世界でももっとも最初の料理についての著書が現れています。

唐代にかかれた『食譜』という料理の本には、141種類の料理名とそのつくり方が記されています。

中でも、陶磁製造業の発展によって、中国料理の品質、色彩、味、形、器という現代の中国料理に要求される五つの要素が、今から一千年ほど前の唐の時代に、すでに整い、中国の調理技術はこれまでに見ない大きな発展をとげます。

唐代の東京??洛陽には三つの大きな市場があり、東の市を豊都といい、南の市を大同と呼び、北の市を通遠といって、いずれも相当の規模をもつ市でした。『大業雑記』という杜宝が書いた本には、豊都の市、周囲八里、12の門あり、中には120種類余りの業種あつまり、三千以上の店が軒を並べる。市の周囲に四百軒の楼閣をなす豪華な商店があり、商人旅人ここに集まり、珍しきも商品山と積まれると書いています。三千余りの店も、飲食店の数がもっとも多く、その繁栄ぶりが想像できましょう。

特に、唐の元宗、天宝年間、756年に河西回廊が再び開道してからは、中国と外国の学者や、僧侶、商人が三三五五群れをなし、市の料理屋で、酒盛りを上げ、歓談する情景はめずらしいことではありません。

当時すでに、外国人商人が出入りする高級レストランまでがたくさんできていたということです。

この頃はまた、中国と外国の調理技術の交流がもっとも盛んであった頃でもあります。

唐代の初期、文成姫が、チベットの王、ソンシェン・カンポに嫁ぎますが『隋唐五代史綱』によれば、「世にある種々の職人、装飾や調理、農耕や織物」などが土番??チベットに伝わったといわれます。

唐の玄宗以降、都の長安を中心に東はいまの洛陽、西はいまの宝鶏、南は今の荊州や襄陽、北は太原までほとんどの地方に旅館や料理店ができ、美味しい料理を以て、商人や旅人の必要に答えたということです。

古都長安は前後十の王朝がここに都を置き、唐代には、長安城も周囲70里、人口100万という相当な規模の都市となり、それにともなく、旅館、料理屋、居酒屋、茶楼が軒を並べ、飲食の品種も百数十種類にものぼっています。その中には、西域の人が聞く飲食店、今でいうバーもあり、勿論そこに現れるホステスも、西域の娘でした。李白も「少年行」??少年の行で、次のように描いています。

西安の若者、金市の東の盛り場を

銀の鞍の白馬に乗り、春風の中を度る

落花、踏み尽くして何処にか遊ぶ

笑っている 西域の女のいる酒楼に。

貴族や金持ちの若旦那が、西域の女性がいる酒楼に遊び、歓楽に更っていたのです。

ここで出される酒も西域の酒、酒のさかなの料理も、西域の料理でした。

こうした中で、東西の異なる風格をもった料理が融合して、後の中国の料理の新しい領域を広げることになるわけです。

中華料理
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