2000年以上も昔、秦の始皇帝がまだ中国を統一していなかった頃、数多くの王国の中で勢力の最も大きな国が周の国でした。その頃には、周の国には、宴会に出される会席料理があり、これを周の八珍といい、料理八品を備えた会席料理のことです。その調理法として、焼く、煮る、酒漬け生物、野菜の塩漬けなどがあり、焼く、それもてり焼きが、当時は大変好まれていたようです。
『呉越春秋』と『土風記』に「魚のてり焼きと公子光、国を得て娘を失う」というエピソードがのっています。
春秋末期のこと、呉王僚は、魚のてり焼きに特殊な興味を持っていた。公子光は呉王僚を殺して政権を奪おうとたくらみ、専諸という男を味方にする。この専諸も公子光と一緒に呉王僚の暗殺に手を貸すことを約束する。当時、大湖のほとりに、太和公という有名な調理師がいた。特に魚のてり焼きでは、右に出るものはいないというほど。専諸は公子光の命をうけ、太和公に弟子入りして、てり焼きの技巧を学ぶ。専諸は三ヵ月で、魚のてり焼きの要領を学び、戻ってくる。
そうしたある日、公子光は、宴を設けて、呉王僚をもてなした。その席に、専諸が「魚のてり焼き」を呉王僚の前に置く。呉王僚は、これをみると、そわそわして、ゴクンとつばを飲み込むと、箸を手にして、魚に手をつけた。その一瞬である専諸はてり焼き魚の腹にかくしてあった。あいくちを取り出すと呉王僚の胸元を刺した。普段は用心深い呉王僚も、魚のてり焼きについ心を奪われ、突然の襲撃に、ハッと思った時にはもうおそかった。こうして政権は公子光の手に入り、公子光は念願の国王の座につき、呉王闔閭を名乗る。
ひにくなことに、魚のてり焼きで、王座についた呉王闔閭は、この魚のてり焼きで、自分のかわいい娘を失うはめにおちいったのである。
呉王闔閭には美貌の娘が一人いた。この娘も、魚のてり焼きが大の好物である。ある日、父の闔閭と、てり焼き魚をめぐって口論となり、その憤りをおさえられず、娘は自刎してしまう。というのである。これは、史書にあることで、間違いはないようです。
歴史に留めるほど大きな事件を引き起こした料理、魚のてり焼き、専諸が魚のてり焼き料理を学ぶため、調理師の太和公の下で、三ヶ月見習工を勤めたというところから見て、それほど簡単な料理ではなく、つくり方も大変凝っていたに違いありません。
残念なことに、史書には、どんな魚を使い、調味料にはどういうものが入っていて、その調理がどうであったか、何も書いてありません。
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