この間、放送局の労働組合によるツアーに参加して、山西省へ行ってきました。バスで北京から西へ7時間ぐらいかかりますが、そのコースには、300年ぐらい前の(1)「王家の邸宅」や世界遺産に指定された(2)「平遥古城」がありました。「王家の邸宅」は3年ぶりだし、「平遥古城」は6年ぶりのことなので、ぜひもう一度尋ねたいなと思いました。大きな邸宅や、数百年間栄えた歴史を持つ町は、蘇州を中心とする「江南地区」という印象が強く、暗いイメージの(3)山西省にもあるんだと、最初に尋ねたときの驚きは、大きかったからです。実は、その裏には(4)「晋商」の力が秘められていました。山西の略称は「晋」なので、「晋商」は山西の(5)商人のことです。この言葉は今あまり耳にしなくなっていますが、明、清の終わりまでの約600年間は、中国の商業に大きな影響を与えました。
明の時代、万里の長城以北には、(6)モンゴル人や(7)女真人などが暮らしており、清の時代に統一されましたが、物資交換をメインとする貿易の需要はずっと大きく、活発でした。また、清の時代からは、東洋に目を向け始めたロシアとの貿易も加わりました。内陸におけるその担い手は、「晋商」たちでした。国境へ向かう「晋商」たちの馬車や(8)ラクダの隊列には、塩、鍋や針を含めた鉄製品、お茶、麻、桑、木綿、シルク製品などの日用品を積んでいました。そして、帰途には相手から買い取った良質の馬や牛、羊、毛皮製品などがありました。貿易が行われる町は、今の(9)内蒙古の(10)包頭市や(11)フホホトなどでした。特に、包頭市の言葉は、山西の方言とほとんど同じで、当時の「晋商」が集まり住んで出来た町だと言われています。その旅路は450キロから1000キロのもので、馬車やラクダによるものでした。
今は世界遺産に指定されている「平遥古城」の「晋商」は、清の時代、中国で初めての小切手を使用して決算に当たり、当時の中国の金融業を(12)牛耳りました。「晋商」はこのように北方の民族や国々との貿易で、陸路で大きく活躍すると共に、中国の銀行業を形作りました。中には日本までわたって業務を展開した人達もあったということです。1840年の(13)アヘン戦争の後、外国の銀行が進出したこともあり、「晋商」による銀行業への影響力は上海など沿海の都市に取って代わられました。しかし、今でも中国の金融業界では多くの山西省出身者が活躍しています。歴史的な偶然かも知れませんが、WTO加盟後、世界各国との貿易に力を入れている今、中国の商務相を担当している薄煕来氏は山西省の出身です。
「晋商」の特徴の一つは、経済的に豊かになると、故郷に大きな邸宅を建設し、家族が集まって住むことでした。敷地面積が5万平方メートルで、1118の部屋を持つ「王家の邸宅」を始め、「喬家の邸宅」「曹家の邸宅」「祁家の邸宅」「常家の邸宅」など、いっぱいあります。中の「喬家の邸宅」は映画(14)「赤いコーリャン」のロケ地として知られ、内外からの観光客をひきつけています。
「晋商」が衰えてから、海外へ移住した人も少なくありません。例えば、かつて全国で数百件の店を持った王家の子孫は、すべて海外で暮らしています。海外にいる(15)華僑は、広東人、福建人が殆どだと思われがちですが、実は、「晋商」の子孫も少なくありません。「晋商」にまつわる物語は、掘れば掘るほど多くのものが出てきそうです。
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