今年の「母の日」(1)は、中国では例年にない暖かさが感じられました。あちこちのレストランで、「女性のお客様にデザート(2)とカーネーション(3)をサービスします(4)」という看板を入口に揚げていました。また、デパートでもいろいろな(5)バーゲンがありました。「暖かい母の日 母をいとおしむ」(6)、「母への愛」(7)、「母の日」などの紙を貼り出して春の洋服を定価の半額にするところが殆どでした。洗濯機やエアコンのコーナーでは「母に楽をさせよう」(8)というテーマを揚げて、販売を促進しています。吉林省の長春市では、横断幕に母へのメッセージを書き留めるイベントが行なわれ、大勢の市民が詰め掛けたということです。直接母親に「愛しているよ」(9)と言えなくて、ラジオにショートメールを送って(10)放送してもらう人も少なくありません。ラジオからは「子どもを育て、家を支えてくれたお母様、お疲れ様でした。ありがとう」という心のこもった内容が流されていました。そして、母親を歌った曲のリクエストも多く、中には中国でも広く親しまれている、日本映画「人間の証明」の主題歌もありました。
私の場合は、自分も親になってから、やっと母親の苦労(11)とありがたさが分かったような気がしました。今、核家族の我が家では朝食を作るのが面倒くさいので殆どは外食で済ませていますが、私の母はそうではありませんでした。物資の乏しかった時代に、母は毎朝5時に起きて子供3人に朝食を作り、一度も朝食抜きで学校へ行かせたことはありませんでした。また、家では息子が90点以下の回答用紙を持って帰ったら私はいつも怒鳴ってしまいます(12)。しかし、私の母はいつも成績の悪い私を叱ったことはありませんでした。特に私が中学校に入ってから、理数系の科目で成績が悪かった(13)にも関わらず、母親は焦りを見せたことはありませんでした。それでも私の高校生時代の3年間は、国語、日本語、数学の成績をアップさせるために、母は持っている人脈をすべて動員し、私を故郷の丹東の最高レベルの三つの高校にそれぞれ転校(14)させました。このおかげで、私は回りの人に、奇跡だと言われるほど大学試験に合格し北京に来ました。大学に受かったら一生涯が保障されるとされる当時では、私にとっては大きな運命の転換点(15)になりました。仕事についてからも、ファッションを含めてあれこれ勉強したいという願望が強かった私に向って、母親は、いつも「いいことよ」と言うだけで、若さならではの試行錯誤を止めたことは一度もありませんでした。ファッションの勉強で日本留学を決めたときも、「センスのある人がやることで、あなたは向いていない」と、回りの人たちにさんざん言われ淋しかったときも、たった一人の応援者である母親がいることで、心強く日本へ向う飛行機に乗れました。
今はファッションデザインと全然関係ない仕事をしていますが、四年間の勉強で磨いたものは、私にとっては大きいものでした。自分にとって放棄すべきものと求めるべきものをやっと見分けることができるようになったのです。40代に入った今は、戸惑うことなく仕事に専念できる上、好きなことを楽しんでおり、今の暮らしに納得しています。
5月14日、カーネーションにギフト袋を手にして急ぐ女性を見て、私は、ずっと見守り続けてくれた母を力一杯抱きしめ(16)たくなりました。でも、そんなことをさせてくれる母はもういなくなりました。
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