安徽省の肥西県小井庄では、現在、安徽省の特徴を持つ新しい農家の住宅が整然と並んでいます。一方、記念館の一部となった我が家の古い住宅はこの30年間の変化が見て取れます。屋根に稲わらを敷き、壁は土と麦わらで作られているこの古い家は30年前の様子を保っています。現在この家のとなりに地方政府と小井庄が400万元を投資して、安徽省の地方の風格を持つ「中国農村の生産請負制記念館」を建て、2005年5月1日に開館しました。実はこの家は記念館の一部になっています。
昔は、農家は全部これと同じようなものでしたが、我が旧家は、生産請負制が実施されるまでの苦しい歳月を物語っています。当時、我が家には、夫婦2人に4人の子供で6人の家族がいました。食べ物も十分ではなく、おなかいっぱい食べたこともほとんどありませんでした。毎日2回しか食事を食べることはできず、ご飯はほとんど、かぼちゃなどで作ったおかゆでした。それでも、生活を維持するためには、多くの借金をしなければなりませんでした。
1978年、肥西県は、百年に1度という日照りに見舞われました。この年の9月15日、当時の山南区委員会書記と人民公社の責任者らは対策についての会議を開きました。会議で、生産請負問題について討議したのです。村の責任者はそれを知り、その夜、すぐに10.ヘクタールの耕地をこっそりと村の農家に分けました。こうして、村民たちに一挙に積極性が生まれました。老若男女が農具を持って自分の畑で一所懸命働いて、10日間のうちに10ヘクタールの耕地全部に、種をまきました。数日後に雨が降り、一斉に芽が出ました。
他の村の人々はこれを見て、賛同や、非難の声がありました。1979年5月21日、私が畑で働いていたところ、妻が、「省の指導者が来た」とあわてて私を探しに来ました。請負制に問題が出たではないかと内心どきどきしました。泥と草でつくった家の小さな部屋に、安徽省委員会の万里書記がやってきました。万里書記は力強い声で「生産請負制は素晴らしい。私はこれを支持する」と言いました。そして、耕地や農具、家畜の分配方法を総括して、みんなの参考になるようにと私たちに意見を求めました。その年の末、万里書記は再び家を訪ねてきました。これを記念し、小井庄の発展の歴史を記すため、我が家の古い住宅は保留され、記念館の一部となっています。(翻訳:トウエンカ)
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