王玉桂さんとお姉さんの王玉珍さんはともに20代です。中国中部の湖北省恩施市の農村で生まれ育ちました。二人は、数年前に北京にやって来て一生懸命働き続け、ようやく安定した生活を送ることができるようになりました。数年前、お姉さんは、北京北東部の郊外にある順義県楊鎮に住み、ある会社の販売員になりました。妹の王玉桂さんはある雑誌社に務め、今は人北京北郊外の昌平県回竜観地区に住んでいます。長い間、野良仕事で苦労してきた両親への感謝を込めて、去年7月初め、二人はお母さんを北京に迎えました。妹の王玉桂さんは新婚でもあり、まだ独身のお姉さんの住まいの方が広いので、お母さんはお姉さんと一緒に住むようになりました。
7月下旬、お姉さんは2日間の出張で地方に行くことになりました。お姉さんは家を出る前に、野菜などの食べ物や生活用品をたっぷり買っておきました。2日後、家に戻ると、お母さんがいなくなっていることに気付きました。お姉さんは、家には物取りや強盗が入った様子もありません。なくなったのはお母さんがふるさとから持ってきた荷物だけです。お姉さんは、もしかしたら、お母さんは、妹の所に行ったかもしれないと考えました。急いで妹さんに連絡を取りました。「お母さんは、姉さんの所にいるのじゃないの?」と、妹さんは逆にお姉さんに尋ねました。さらにふるさとに残ったお父さんに電話をすると、お母さんからは何の連絡もなかったということです。
妹の王玉桂さんは、お姉さんの家に向かいました。夜中の12時ごろまで家の近くを一生懸命探し回りましたが、見つかりませんでした。
「お母さんが失踪した!」王玉桂さんは、思わず大声で泣き出しました。
王さん姉妹が心配したのは、湖北省の農村出身のお母さんは地方の訛りがひどくて道を聞くなど、人と話をするのが難しいこと、また、学校に行かなかったことで字も書けないことです。
王さんは、会社の休みを取って、お母さんが失踪して最初の十数日間、お姉さんが住む楊鎮や近くの村を一つ一つ探し回りました。お母さんの写真を印刷したチラシを村人や村の管理委員会に配ったり、村の有線放送で人探しのアナウンスをしてもらったりしました。しかし、お母さんは見つかりませんでした。
途方に暮れた王さんは、別の方法を考えました。「警察署に行って母の失踪を届け出ました。また、北京市の各新聞社に行って、『尋ね人』の記事を掲載してもらいました。さらに、浮浪者を収容する政府の救護所を訪ね、何か分かれば連絡してもらうことにしました」
その後、あちこちから情報提供の電話が来るようになりました。「先週の火曜日、駅の近くでお母さんを見かけた」「一昨日、あるファストフード店の前でしゃがんでいるお年寄りを見つけた。掲載された写真とそっくりだ」などなど。王さんが、教えられた場所に駆けつけると、その人はもういなかったり、いてもお母さんではなかったりしました。ぬか喜びでした。
一ヶ月経っても、お母さんはまだみつかりませんでした。お母さんは持っていたお金ももう使い終わっただろうと思い、王玉桂さんの心配は増す一方でした。これ以上会社から休みを取るのも難しいと考えた王さんは、社長に退職願いを出しました。社長は、「仕事よりお母さんを探すことのほうが大事だ。とりあえず探しなさい」と王さんを慰めてくれました。
王さんの生活はすっかり変りました。毎日、チラシを抱えてあちこちを回っていました。「わたしの母が失踪しました。これはチラシです。よろしくお願いします」「こんにちは。これは私の母の写真です。母を見かけませんでしたか?」これは、王さんが毎日繰り返す話です。周りの人も親切に接してくれました。「みんなにも母親がいます。わたしなら居ても立ってもいられません。協力するのは当たり前のことです」
「お嬢さん、しっかりして。お母さんをみかけたら、すぐ電話をするから」
「テレビでやせた王さんを見て、心が痛みます。これは朝鮮人参です。疲れた時、二三個口に入れてください」見知らぬ50代の女性は、王さんに食べ物を与え、暖かく抱きしめました。
でも、王さんは、お母さんのことを思い出すと、心配でたまりません。お母さんに北京に来てもらって、楽をしてもらうつもりでしたが、今は、食べるものもなく、寝るところもなく、どんなにつらい毎日を送っていることでしょう。
あっという間に、夏が過ぎ秋になりました。王さんは過労のため体を壊してしまいました。家にいなければならなかった王さんは、住んでいる回竜観地区のインターネットサイトの掲示板にお母さんを探していることを載せました。地区に住む人たちは、王さんに協力するために行動を起こしました。
10月27日土曜日、この日は雨が降っていましたが、ネットで王さんのことを知った地区の人たち40人余りが15台のマイカーを運転して地区の広場に集まりました。各地区の看板にポスターを張ったり、チラシを通る人や車に配ったりしていました。また、地区の警備員のところにも数枚のチラシを残しました。
三ヶ月経ちました。王さんは相変わらず町に出て毎日チラシを配っていました。涙ぐみながら、「チラシを見てください。わたしの母は、何か食べ物をくださいと言ってあなたのお宅に来るかもしれません」と呼びかけました。
11月2日、王さんのお母さんが失踪してからすでに103日間となりました。王さんは、北京の隣にある河北省廊坊三河市の王葉さんという女性から電話をもらいました。近くの建築現場で見つかり、ある人に引き取られたおばさんが痩せていて背が低く、南の地方の訛りがあるので、もしかしたら王さんのお母さんではないかというのです。これまでに数十回も通報者から連絡をもらい、その都度希望が生まれ、また絶望せざるを得なかった王さんですが、今度もやはり行ってみたくなりました。この日、引き取られたおばさんがいる廊坊三河市馮家府村に向かいました。
身寄りの分からない女性を引き取った人は、賈西珍さんという年配の男性でした。賈さんは王さんに会ったとたん、「王玉珍さんですか」と聞きました。それは、お姉さんの名前です。「その人はお母さんに違いない!」王さんは、お母さんに会う前に、涙をぽろぽろとこぼしました。100日以上も経ってようやく再会した王さんとお母さんは、長い間しっかりと抱きしめ合いました。
賈西珍さんは、王さんのお母さんと10月初めに出会ったときのことを振り返って言いました。「広告の看板の前で横になっていました。破れた白いタオルで顔を覆っていました。午前9時半ごろのことです。お金を十元あげました。彼女は、近くの食堂でラーメンを食べたあと、また看板の前で横になりました。こころが痛みました。寒くなっていたので、このまま放っておくと、凍え死ぬかも知れないと思いました」
賈西珍さんは、王さんのお母さんを引き取りました。それから、王さんのお母さんは、食べることや住むことに困らずに済みました。普段は、賈さんの洗濯物を洗うなどの手伝いをしていたということです。
ようやく自宅に帰ることができたお母さんは、この103日間の出来事を王さんに話しました。北京で一緒に暮らしていた姉の王玉珍さんが出張に出かけた後、荷物を持って妹の王玉桂さんのところに行こうと思いました。しかし、姉の家を出てまもなく迷子になりました。二人の娘の住所や電話番号を覚えていないし、標準語が話せないので人と話をすることもなかなかできませんでした。ふるさとには山が多いので、山があるところばかり歩いていました。おなかがすいた時は、果樹園に入って、地面に落ちた果物を拾って食べたこともあります。警察署に行こうと考えたこともありますが、身分証明書を持っていないし、自分の名前さえ書けないとあきらめたそうです。
王さん姉妹は、お母さんにつらい思いをさせたことを反省する一方、この103日間、お母さんや姉妹に手を差し伸べてくれた人々への感謝の気持ちでいっぱいです。妹の王玉桂さんは、こう語りました。「世の中にはいい人が多いですね。皆さんやメディアのおかげで、母が見つかりました」
王さん姉妹は賈西珍さんと義理の親子の縁組をしました。今回の体験を教訓に、王さんは、特に地方から都会に出る若者たちに呼びかけています。「お年寄りを一人で家に残さないでください。住所と電話番号を書いた紙切れをお年寄りに渡し、常に持たせてください」
王さんは、お母さんを探していた時から、「尋ね人」のチラシや新聞の「尋ね人」の欄を集めるようになりました。今はカメラをいつも持ち歩いています。王さんは、「私と同じように身内を探している人がいます。記事を見たら切り抜きます。もう一冊になりました。みんなが手を差し伸べたら、より多くの家庭に平和がやってきます」と言いました。(文:藍暁芹)
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