中国には、三輪自転車に客を乗せて運ぶ商売があります。陳平さんは40歳を過ぎた三輪車の車夫です。陳さんにとって、この7月5日は特別な日となりました。20年の努力を経て、待ちに待った、大学院の合格通知書が手に届いたのです。三輪車の車夫から大学院生へ・・。車夫として長年、三輪車を引いてきた陳さんが、この日、人生の転機を迎えたのです。
今年4月のある日、中国南部、雲南省の雲南大学で大学院入試の二次試験が行われました。20,30代の受験生に混じって、やや年配の受験生が先生の目を引きました。そこにいた林超民教授は、当時のことをこう話してくれました。
「私は彼と話をしたんです。専門知識については全く問題ありません。何よりも、やる気満々で、勉強しようとする意欲がこの上なく強かったこと、これが深く印象に残りました。」
林教授がいうこの受験生が、先ほどの陳平さんです。陳さんは試験で、教授たちを前に、実力の高さを見せました。筆記試験、面接を経て、見事、雲南大学人文学院民族史専攻の大学院生となったのです。
陳さんは、これまで中国東北部、吉林省の九台という小さな町で三輪車の車夫として働いてきました。
吉林省と雲南省は数千キロも離れています。40歳を過ぎた陳さんはなぜこの大きな転換を決意したのでしょう。話は20年前に遡ります。
1986年、高校3年生の受験生だった陳さんは、他のクラスメートと同じように、大学共通試験を受けました。クラスでも優秀だった陳さんは、そこで510点を取りました。この510点という点数は、実はあの北京大学にも合格するに十分なものだったのです。ところが、陳さんの志望大学は中国人民大学でした。ですから陳さんは迷わず願書に「人民大学」と書いて提出したのです。しかし、実はこのときの人民大学の合格点は北京大学よりも高く、陳さんの510点は、その合格点に達しませんでした。その結果、陳さんは、大学を不合格になってしまったのです。そして、陳さんより点数が低かったクラスメートがめでたく北京大学に受かってしまいました。
新学期が始まる前、陳さんは駅でこのクラスメートを見送りました。その時のことを陳さんは今も覚えています。
「彼が北京大学へ行く時、私とお姉さんがトランクを持ってあげて、駅まで見送りに行きました。私は、その時のことを今でも忘れられません。彼は有名大学に受かったのに、私は不合格だったのです。彼よりもいい点数だったはずなのに・・。私にとって一生忘れられない挫折でした」
思ってもみなかった不合格という事実が陳さんに与えた衝撃は相当なものでした。浪人して、来年もう一度チャレンジできれば良かったのですが、陳さんの家はそれほど裕福ではありません。1年間勉強に専念するほどの余裕はありませんでした。でも、その時、陳さんにはある決意が生まれていました。「大学院生を目指そう」という思いです。
しかし、大学院生になるというのは、そう簡単なことではありません。家庭の事情もあり、陳さんは仕事しながら勉強を続けるしかありません。彼は工場に就職し、少しずつ院生試験を目指して、勉強を重ねていったのです。
そのころ、とんでもないことが起きました。陳さんが働いていた工場が突然、倒産したのです。仕事を失った陳さんは、やむなく三輪車の車夫をやることで生活していくことになったのです。
三輪車の車夫をしているのを知り合いに見られるのを恥ずかしく思った陳さんは、故郷から遠く離れたところを選んで仕事していました。別の仕事をしようと考えたこともありましたが、勤務時間が長く、勉強の時間がなくなるから、諦めるしかありません。三輪車引きの仕事をするのは、自由な時間が多く、勉強の時間も確保できるからです。
「お客さんがいない時が私の勉強時間となりました。片手をハンドルに置いて、片手で本を持って、読みます。いつもこうやって、勉強を続けてきたんですよ。」
そして、何度も大学院試験に挑戦した陳さん。でも結果は不合格の山。それでも、陳さんはあきらめませんでした。陳さんが本を読むのに夢中だったことは、車夫の間でもよく知られていました。車夫仲間の一人、張保国さんの話です。
「彼と知り合って5、6年になります。彼はいつも三輪車を引く合間に、暇さえあれば読書していました。三輪車をそばに置いていて、本を取り出す。お客さんが乗っても気づかないこともありましたねー。お客さんが乗って「行こう」と声を掛けられて、やっと本から頭を上げて漕ぎ始めることがありました。彼はいつも夜の10時ごろまで仕事ていました。暗くなると、今度は、街灯の下に三輪車を停めて、その明かりで本を読んでいました。」
陳さんの車には、6年間でおよそ3万人のお客さんが乗ったそうです。稼いだお金は4万元(60万円)。これで妻と子の家族三人の生活を支えてきました。
その家族も、陳さんと苦労を共にしてきました。
妻の劉静さんは、その当時をこう振り返ります。
「私もさすがに、もうこれ以上我慢できないと思ったことがあります。何度受けても不合格でしたから。不合格を知って、彼は大声で泣いていたこともありました。私も思いましたよ。なんでこんな道を歩まなければならないの?って。私自身もずっと揺れ動く毎日でした。」
しかし、陳さんは自らの道を歩み続けました。
「考えすぎては、何もできなくなります。失敗した時には、歌にもあるように、『これぐらいの痛さは何もならない』、この言葉を口に出して、自分を励ましました。私には失敗か成功かということを考える余裕はありません。立ち直って、また頑張る、これしかなかったんです。」
この陳さんの生き方について、周りの人たちはいろんな見方をもっています。20代から40代にかけての20年は人生にとって大切な時間、大学院にこだわらず、もっとうまい生き方があったのではという人もいます。
一方で、陳さんに理解を示す人もいます。雲南省昆明市に住む魏群さんはこう言います。
「収入という点から見れば、たしかに選択を誤ったとしかいいようがないかもしれません。でも、人間としては、尊敬されるべきだと思います。人は、お金だけのために生きているのではありません。自らの夢を大事にして、一見、不可能と思えることにチャレンジすることも、人生の重要な意味だと思います」
ほかの人々はどのように思うかはともかく、陳さんは雲南大学で新しい人生をスタートさせました。「大学院生になったからといって、お金儲けして、裕福になろうなどとは思っていない。それよりも、一つの夢を叶えたということを大事にしたい。卒業後は、良い仕事が見つからなければ、ふるさとに戻って、もう一度、三輪車の車夫になってもいい」。陳さんは、そう言って、朗らかに笑います。
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