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「忠実猛将」の関雲長

2009-02-23 09:45:02     cri    

 関羽(かんう 162年 - 219年)は中国三国時代の蜀漢の名将で、字(あざな)を雲長といい、諡(おくりな)は壮繆侯です。世間の人々によく知られている「忠実猛将」です。

 中国の後漢末期、宮廷内部は宦官の悪政で、末期的な症状を呈し、そのために世の中は飢饉と貧困が蔓延し、黄巾賊(太平道という宗教集団、頭部に黄色の頭巾を被っていたので黄巾とよばれた)の反乱が世の中を騒がせていました。乱世をただすため、関羽、張飛、劉備の三人は義兄弟の杯をかわし、義勇軍に参加し黄巾賊征伐に立ち上がります。

 「我ら天に誓、我ら生まれた日は違えども、死すときは同じ日同じ時を願わん」

 これは劉備を長兄、関羽様を次兄、張飛を末弟とした義兄弟のそして主従の杯をかわしたときの有名な台詞であり、桃園というところで誓ったので、これを「桃園の誓い」といいます。この日より関羽は劉備に生涯忠誠を誓い、義弟張飛とともに劉備を助け、国家の安泰のために立ち上がりました。実は劉備より年上ながら、劉備を兄として忠誠を尽くしたのです。

  

 関羽の人柄を語るうえで「義」は忘れてはなりません。義とは「義理人情」「義を見てせざるは勇なきなり」といわれているように義侠心のことです。建安5年(200年)劉備は小沛で曹操に敗れ、袁紹のもとに落ちのびたとき、関羽の元には劉備の奥さんが居たため、曹軍の武将張遼の説得を受け入れ、曹操に降伏を決意します。しかし、関羽は曹操に降伏するにも、次の3つの条件を引き替えに出しています。1、曹操に降伏するのではなく漢朝に降伏する。2、劉備夫人の安全を保証すること。3、劉備が生きていることがわかればすぐ劉備のもとに帰る。曹操は関羽の人柄に惚れ込んでおり、偏将軍の位や金銀財宝を与え、さらに赤兎馬という名馬を与えたりして関羽を手元に残したいと思いました。しかし、関羽は金銀財宝には興味を示さず、ただ赤兎馬だけを手もとに残し、これで劉備のもとに駆けつけられると喜んでいたといわれています。功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると思い、関羽は曹操から受けた恩への返礼として、白馬の戦いで袁紹軍の将顔良、文醜を切り、曹操軍に勝利をもたらします。そして、劉備の奥さんを守りながら、5つの関所と6人の将を斬り倒し、劉備のもとへ向かいました。この物語は京劇中で『封金挑袍』や『古城会・訓弟』などの演目があります。

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