会員登録

海内無双、「裘派」芸術 (二)

2009-01-15 14:52:05     cri    

 「裘派」芸術といえば、「裘盛戎」という人の話をしなければなりません。「裘派」は裘桂仙から始まったとはいえ、本当に「裘派」を完璧な芸術にして光彩を放ったのは裘盛戎であって、現在の人々は裘盛戎こそ「裘派」の創始者と見ています。

 裘盛戎(1915年―1971年)は、北京出身で、「裘派」の創始者・裘桂仙の次男です。本当は四番目の息子ですが、長男の裘振奎の後に生まれた次男と三男が2人とも若死にしました。裘桂仙はこの子が無事にすくすくと育つように、「大群」という幼名を名づけました。長男の裘振奎の声は京劇に向かなかったので、胡弓を専攻し、父親の技術を受け継ぎました。そして、「裘派」芸術の跡継ぎは裘盛戎しかいませんでした。

 伝統的な中国京劇は昔から「家伝」を強調し、歌い方といい、しぐさといい、すべて生涯をかけて研究したもので、そう簡単にほかの人に教えることができないものです。裘桂仙の一生は少々うつうつとして志が遂げられなかったため、したがって、息子の裘盛戎は父親がもっている技芸のありったけを伝授されました。

 裘家のおきてが厳しくて、子供たちは気ままに出かけることができず、裘盛戎はほかの兄弟と一緒に、子供時代をほとんど家の庭で過ごしました。内向的な裘盛戎はもしかしたらこの頃から、1人で遊んだり、考え事するのに慣れていたかもしれません。

 父親は裘盛戎が自分の跡取りになることを期待していたので、しょっちゅう裘盛戎をつれて、自分の公演する劇場に行きました。幼い裘盛戎は父親が楽屋でメーキャップしたり、衣装を着たりするのを見て、普通の人が古代の英雄になるのをとても不思議だと思ったといいます。長い時間、京劇の中で過ごし、知らず知らずのうちに京劇という芸術にたいへん興味がわいてきました。 

 これは父親の裘桂仙の苦心でした。裘桂仙は自分が京劇に夢中になり、役者となったので、息子の京劇に対する興味を育てることがもっとも重要だと考えていました。「京劇は別の職業と違って、夢中にならないと上手くできない」と裘桂仙は述べました。父親のおかげで、裘盛戎も一生伝統劇を愛しました。京劇だけではなく、ほかの地方劇もたくさん観ていたことが、その後の京劇発展にかなり堅固な基礎を築きました。

 裘盛戎が8歳の時、裘桂仙はそろそろ本格的に京劇を勉強させようと思い、ここから本格的に裘盛戎の京劇人生の幕が開けられました。(楊)

(つづく)

「裘継戎:僕にとってただ信仰ではない。」

関連ニュース
関連項目
v 海内無双、「裘派」芸術 (一) 2008-12-23 21:17:27
写真トピックス
コメント
今週の番組
今日熱点
快楽学唱中文歌
特集ダイジェスト
LINKS