会員登録

海内無双、「裘派」芸術 (一)

2008-12-23 21:17:27     cri    

 今日までずっと広く伝わっている京劇中の「裘派」芸術とは、裘桂仙(1881年―1933年)が創始して、息子の裘盛戎(1915年―1971年)が完璧にした「淨」の流派です。

 簡単に言えば、「淨」は顔に隈取をして人物を演じる役柄であり、「花臉」とも呼ばれます。「淨」は表現が難しくて、役者の素質も高いものが要求されます、古くから言われているように、「千生万旦一淨難求」であって、優れた「淨」の役者はほかの役柄より最も少ないという意味です。「淨」には、「一腿二眼三哇呀」という3つの基本的な修業があり、「一腿」は下半身の振る舞いで、例えば、歩きぶりや足を上げたり、足で蹴ったりなどです。下半身の振る舞いがうまくできれば、しぐさが美しく見えます。「二眼」は言葉の通り、目いわば眼差しです。人物の気持ちはすべて眼差しで伝えるため、目の修業は最も重要で、目玉を回したり、寄り目などを練習します。「三哇呀」は人物が興奮するときに出る声ですが、基本として難しい修業です。人物の気持ちによって、「笑いの哇呀」、「怒りの哇呀」や「急ぎの哇呀」、「速い哇呀」、「遅い哇呀」、また「歌いの哇呀」、「唱えの哇呀」などがあります。

 「裘派」の創始者の裘桂仙は、北京の出身で、原名は荔栄です。「小鴻奎」という科班(当時の京劇俳優養成所)で修業し、張鳳台や徐立棠などの名役者たちが歌いを主とした「銅錘花臉」という役柄を学びました。その後は、当時人気を呼んでいた何桂山の弟子になり、京劇の勉強に没頭しました。よく演じる出し物は『草橋関』、『白良関』、『刺王僚』などがありましたが、青年期に声変わりをして一時的に舞台を引退し、胡弓を弾き始め、1900年から長い間、譚鑫培(譚派老生の創始者)の専用胡弓弾きとなりました。1907年、裘桂仙の声がだんだんと回復して、もう一度舞台に戻りました。

 

 裘桂仙はあまりたくましくなくて、背も高くありませんが、自分の短所がよく分かっており、避けていました。彼の声がなかなか味わいがあるので、勢いがよくて厳かな人物を演じるのが得意でした。

 裘桂仙の息子の裘盛戎は父親の衣鉢をよく継いだ上、「裘派」芸術にさらに磨きを掛けました。(楊 吉田)

(つづく)

「裘継戎:僕にとってただ信仰ではない。」

関連ニュース
写真トピックス
コメント
今週の番組
今日熱点
快楽学唱中文歌
特集ダイジェスト
LINKS