マイケル・ジャクソンの思い出
Talk By 聂永勝、安藤、つばめ
「マイケル・ジャクソン死去、享年50歳」
あまりに突然な出来事に、世界中が言葉を失いました。
7億5千枚ものアルバムが売れ、1980年代初頭から斬新な音とダンスで、世界を魅了したキング・オブ・ポップス。
マイケル・ジャクソンの死は中国でも大きな反響を呼び、北京をはじめ各地で彼のことを偲ぶファンの集いが行われ、インターネットでもたくさんの人がブログで追悼する文章が掲載されました。
それでは、中国人にとって、「マイケル・ジャクソン」が一体何を意味していたのでしょうか。社会におけるその受け止め方は、中国と日本とでは、どのように違うのでしょうか。年齢は近いが、生まれ育った国と環境が違う3人が、思い出の中の「マイケル・ジャクソン」について語り合います。
この3人とは、
中国の首都、文化の中心地でもある北京で生まれ育ったジョウ、
中国中南部、安徽省の地方都市・貴池で中学・高校時代を過ごしたつばめ、
日本の神奈川県藤沢市の海辺で生まれ育ったアンドウ
今年40歳になる北京っ子のジョウは、マイケルの死をネットで読むと、たちまち涙で目がかすんでしまいました。ジョウにとって、マイケル・ジャクソンは青春そのものでした。
1983年、中国は改革開放政策が始まって間もない頃のことでした。それまで、マイケル・ジャクソンのことは、新聞や雑誌などでしばしば文字として紹介されていましたが、テープレコーダーがこれから普及するという時代だけあって、その耳でマイケルの歌を聴いた人が本当に少なかったです。それが、音楽家の家に生まれ育ったジョウも例外ではありません。
そんなある日、ジョウは日本人歌手・加藤登紀子さんの北京コンサートに行きました。後で分かったことですが、それが、ジョウ及び多くの観客にとって、それがマイケル・ジャクソンの音楽との初体験になりました。一体、それはどういうことだったのでしょうか?
1985年、北京で開かれた映像関連の展示会で、ジョウは初めて「スリラー」の映像を完全バージョンで見ることができました。「32インチのカラーテレビーを前に、5~600人が群がって、息を呑んで、繰り返し流された画面に見入っていた」風景がありました…
幽霊もたくさん登場し、なんとも恐ろしい雰囲気に包まれた「スリラー」のPVではありますが、ジョウは「人生の未知をほのめかし、若者の自我を目覚めさせてくれた」とコメントし、「若者がみな、自国の富強を夢見ていた時代だった。しかし、先進国とは何か、誰もその姿は知らなかった。そんな中、マイケルはその歌と映像で『これぞ先進国だ』と見せてくれた。若者に希望をもたらした人だった」と振り返ります。
ところで、田舎育ちのつばめは、「マイケル・ジャクソンの歌を聞こうとして聞いたことがなかった。しかし、知らない間に、耳に入り込んでいてこびりついていた。けれど、気づいたら、彼は歌詞で何を歌っていたか、全然知らなかった」。しかし、それでも、「情報に飢えていた当時の中国人にとって、彼の写真やテープがアメリカに直接触れる数少ない情報源だった。中国人にとって、マイケル・ジャクソンが1980年代の不可欠の思い出なのだ」。
一方、湘南育ちのアンドウにとって、マイケル・ジャクソンは自分にとって「洋楽の原風景」だったと言い、CDもビデオもネットもなかった時代、「ジャイケル・マクソン」と友人同士で茶化しながらも、ラジオの情報誌を買ってきては、帝王の行方をこまめにチェックし、その動向をおっかけていました。
マイケルにまつわるゴシップや奇行のうわさもたくさんあるが、そういうものとは関係なく、オリジナルのマイケル・ジャクソンから受けた衝撃をありのままに語った今回の「つばめのス」でした。
「マイケル・ジャクソンの死を受け、中国で、いたるところにその死を偲ぶ活動が行われ、新聞にも様々な記事が掲載されていたが、何故そこまで大々的に議論されていたのか、その背景がやっと分かった」。
番組収録後、アンドウがぽつりとつぶやいた一言でした。
皆さんは、マイケル・ジャクソンに対して、どのような思い出を抱いているでしょうか。(つばめ)
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