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日本人スタッフのつぶやき149ー枇杷膏的記憶・序(2)

2012-05-10 11:06:14     cri    

 (枇杷膏的記憶・序(1)はこちらから)

 「中国ではバレエ、習えるかな?」

 妹は尚、もうすぐ始まる想像もつかない暮らしの始まりに素直に溶け込む準備をしているようだった。

 日本で2歳から8年間バレエを習ってきた妹。(後日談だが、北京生活が始まって間もなく、妹は中国中央バレエ団の責任者から直々に入団のスカウトを受けるのであった)。

 私に取り立てた特技は無い。

 習い事、という意味で言えば、妹と同じようにバレエを習ったことがあるが、1年間スタジオに通った3歳半のその日、しなやかな踊りを披露する私を想像した両親を早々に裏切って、近くの公園に生えているいちじくの木に登ってはその実の美味を堪能するようになった。

 お習字は段を4つ数えるところまで極めたが、子供の足で40分かかるお教室までの道のりを探検することが好きで続けていたものだ。実になるはずもない。

 ピアノや金管楽器をなんとなくこなすが、町内会のイベントに呼ばれる程度のお戯れでしかなかった。

 しいて言えば、その「お戯れ」がソレまでの人生最大のスポットライトであったように思う。

 つい今朝まで、中学3年生という思春期の青春をただただ謳歌していたのだ。

 付き合い始めてもうすぐ1年になる恋人も居たし、部活の後夜遅くまで学校の自転車置き場で語り合う仲間も居た。

 直前まで知らされなかった中国行きに反発心を抱いていたことも手伝って、その大地に身をゆだねることに希望の一つも生まれなかった。

 私が中国行きを知らされたのは、すでに荷造りが始まった出発のわずか数ヶ月前だった。(部活、部活でほとんど家に居なかった私は、大掃除だと思っていた母の行動が祖国との別れの儀式だとは露ほどにも思わなかったのだ)。

 中学卒業まで、指折り月日を数え始めた矢先のことだ。

 1993年、初夏。

 私が中国行きの飛行機に乗っているこの瞬間、私のクラスメイトたちは修学旅行先の京都で、私とは違う未知の都市との遭遇を果たしているのだろう。

 皮肉にも私たちが北京に向けて出発したその日は、中学校最後の大イベントである修学旅行の出発日でもあったのだった。

 そしてその日、私と妹の運命はゴーゴーと大きな音を立てて巨大なうねりの中に吸い上げられて行ったのだ。

 私には確実に、その音が聞こえていた。

 (中原の「つぶやき」コーナーは、先月よりその半生を北京で過ごした一日本人のちょっとしたフィクション・ストーリーとなっています。主人公の「ナカハラ」は、私中原美鈴とは別人物ですのでご注意を。)

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