1987年から1992年の初めまで、私は<中国国際人材交流協会>の日本総代表として東京にいた。1988年11月のある日、日中協会の白西事務局長(当時)から電話があり、茅先生が亡くなったと言う。89歳だった。びっくりした。元気な老人だとばかり思っていて、病床にあるということは知らなかった。突然の訃報である。白西事務局長は、日中協会・東京大学・日本アイソトープ協会など五団体の合同葬の日取りと時間を知らせてくれた。場所は、青山学院大学構内の礼拝堂だという。12月3日、私は、他の予定を二つ三つキャンセルして会場に行った。時間前に行ったのに、会場はすでに1500名の茅先生を偲ぶ人で満席だった。空席がないので会場の後の方に立っていると、係りの青年が私をみつけて、前の方の席に案内してくれた。同窓の蘇歩青先生が上海からこられて列席され、心のこもった弔辞をささげられた。
いよいよお葬式が始まり、牧師さんの講話と、祈祷を聞きながら私は思った。茅先生は、「真摯な学問の探求」と「日本の平和と繁栄」、「日本と中国の友好協力」、この三つの目標に、一つの共通点を見出し、その実現のために一生を捧げた日本人の一人である。茅先生は、一つの時代を代表した世界的知識人であった。お葬式の最後に、参列者一同歌った讚美歌の一節が今も耳に残る。
君は谷の百合 峰のさくら
現(うつ)し世に 類もなし
その後しばらくして、茅先生が亡くなったとき集まった香典を「茅誠司奨学金」として、上海の復旦大学に寄附したと聞いた。茅先生の伊登子夫人が、1979年、中国の国費留学生が初めて来日以来、園田直外相の天光光夫人、小川平四郎初代中国大使の嘉子夫人と共に<中国留学生友の会>を設立され、その世話人代表として、留学生支援を重ねておられたからだ。
茅先生は、天国に行かれてからも、中国の若い留学生・学者が育つのを楽しみにしていたかったからであろう。
|