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茅 誠司先生

 茅 誠司(かや せいじ)先生は、中国では昔から有名である。それは、茅先生が、著名な物理学者であり、東京大学の総長や日中協会の会長を歴任したからばかりでなく、先生の人柄が中国人の尊敬を集めていたからである。

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 茅先生が、最初に訪中されたのは、1955年6月、「日本学術会議訪中団」の団長としてこられたときである。この団は、15名の著名な学者からなり、その中には、坂田昌一、朝永振一郎、有山兼孝、南原繁など世界的に著名な学者が顔をそろえていた。この団の訪中は、中日間の学術友好交流の皮切りとなり、高く評価された。同年11月、中国科学院院長の郭沫若を団長とする11名の「中国科学者代表団」訪日は、茅先生一行の訪中に対する答礼訪問であった。

 中日国交正常化後、茅先生は、岡崎嘉平太先生らとともに、幅広い日中友好交流を目的とした<社団法人 日中協会>創立のために奔走し、その初代会長になられた。私が最初に茅先生にお目にかかる機会を得たのは、茅先生が「日中協会訪中団」の団長として訪中されたときだった。中日友好協会の廖承志会長主催の歓迎宴が人民大会堂で行われ、私はそれに陪席した。その時、訪中団は、大きなカラーテレビ(29インチ)を<中日友好協会>にプレゼントした。その頃、中国ではまだカラーテレビが普及していない頃で、29インチのような大きなものは特に珍しかった。あいさつに立たれた茅先生は、中日友好交流の大切さを強調され、日中協会の今後の活動予定を紹介したのち、最後にこのカラーテレビについてふれられ、次のようにのべた。昔は人生わずか50年といって人間の平均寿命は短かった。ところが、今は平均寿命が70余才にまでのびた。この寿命ののびた時間に、人間は何をしているのか、テレビを見ているのだ、と。私はこれを聞いてなるほどと思った。

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 その頃、誰に聞いたのかは忘れたが、面白い話を聞いた。東北大学の学生の頃、茅先生は、中国人留学生の蘇歩青先生と仲がよかった。二人は同じ下宿で生活していた。ある日、蘇先生は、日本人女性と見合いをすることになり、茅先生の背広を着用して行ったという。蘇先生は、後に有名な数学者になり、上海の復旦大学の校長にもなった。蘇先生は、茶目っ気の多い人だが、この日ばかりは他人の背広を着て来たという負い目もあり、始終神妙な顔をしていたに違いない。とにかく、この見合いは成功し、見合いの相手は蘇歩青夫人となる。背広を貸した茅先生は、蘇先生の恩人というべきだろう。

 今は故人となった前中日友好協会会長の孫平化は、茅先生が東大総長時代に提唱した「小さな親切」運動に大きな感銘をうけていた。これは、中国にも導入してひろめるべきだというのが彼の持論だった。

 茅先生の専門は、強磁性体物理学と聞いたが、東大卒以外で初の東大総長となり、日本の南極観測を提唱、実行されたのをはじめ、国際的学術交流、文化交流に尽力され、文化勲章等を授与された。とりわけ、1975年9月、日中協会の成立にともない代表世話人、81年5月の社団法人化にともない会長となられ、鄧小平氏はじめ中国の指導者とたびたび会見、とりわけ中国科学院の周培源・方毅両院長と親交を重ねられた。日中科学技術交流の先駆者であった。

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 1987年から1992年の初めまで、私は<中国国際人材交流協会>の日本総代表として東京にいた。1988年11月のある日、日中協会の白西事務局長(当時)から電話があり、茅先生が亡くなったと言う。89歳だった。びっくりした。元気な老人だとばかり思っていて、病床にあるということは知らなかった。突然の訃報である。白西事務局長は、日中協会・東京大学・日本アイソトープ協会など五団体の合同葬の日取りと時間を知らせてくれた。場所は、青山学院大学構内の礼拝堂だという。12月3日、私は、他の予定を二つ三つキャンセルして会場に行った。時間前に行ったのに、会場はすでに1500名の茅先生を偲ぶ人で満席だった。空席がないので会場の後の方に立っていると、係りの青年が私をみつけて、前の方の席に案内してくれた。同窓の蘇歩青先生が上海からこられて列席され、心のこもった弔辞をささげられた。

 いよいよお葬式が始まり、牧師さんの講話と、祈祷を聞きながら私は思った。茅先生は、「真摯な学問の探求」と「日本の平和と繁栄」、「日本と中国の友好協力」、この三つの目標に、一つの共通点を見出し、その実現のために一生を捧げた日本人の一人である。茅先生は、一つの時代を代表した世界的知識人であった。お葬式の最後に、参列者一同歌った讚美歌の一節が今も耳に残る。

 君は谷の百合 峰のさくら

 現(うつ)し世に 類もなし

 その後しばらくして、茅先生が亡くなったとき集まった香典を「茅誠司奨学金」として、上海の復旦大学に寄附したと聞いた。茅先生の伊登子夫人が、1979年、中国の国費留学生が初めて来日以来、園田直外相の天光光夫人、小川平四郎初代中国大使の嘉子夫人と共に<中国留学生友の会>を設立され、その世話人代表として、留学生支援を重ねておられたからだ。

 茅先生は、天国に行かれてからも、中国の若い留学生・学者が育つのを楽しみにしていたかったからであろう。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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