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 <中国中日関係史学会>の会員学者の研究によれば、徳川幕府の八代将軍吉宗は、毎年、学者を中国に派遣して、中国で出版されている本を買い集めたという。とくに、吉宗が欲しがっていたのは、中国語に訳された西洋人の書いた本だったといわれている。当時の日本の知識人なら、中国語の文語文が、全部、原文で読めたはずだ。中国で出版された本が、日本にわたるルートは、徳川時代すでに出来ていたのである。

 マテオ・リッチは、1610年5月11日、北京で亡くなった。万暦皇帝は、北京の<阜成門外>の一角に土地を賜ってマテオ・リッチの墓地にした。今でもそれは完全に保存されている。

 因みに、八達嶺の<長城>に行く途中にある<明の十三陵>の地下宮殿に、万暦皇帝の陵墓である。

 上海の高級住宅街<徐家匯>という地名は、徐光啓一族が住んでいたからだといわれている。

孫平化著『中日友好随想録』出版記念座談会

 中日友好協会の会長だった孫平化氏の晩年、1984年から1997年に80歳でなくなるまでの本人の日記を、孫さんの愛嬢・孫暁燕女史が整理して、2009年12月『中日友好随想録』と題して、遼寧人民出版社から出された。450ページにわたる17CM×24CMの大型の本で、内容は実に豊富である。

 その出版記念座談会が、中日友好協会と中日関係史学会の共同主催で、2010年4月8日、中日友好協会の講堂で行われた。中日友好協会名誉会長の唐家璇(元国務委員)、同協会常務副会長の井頓泉、中日関係史学会会長の武寅をはじめ約80名が出席して、孫平化先輩の遺徳を偲んだ。

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 孫平化(以下、所々敬称略)は、その生涯を中日友好に捧げた人である。彼は、我々の敬愛する周恩来、廖承志の指示を忠実に実行し、周恩来、廖承志が亡くなってからも、その遺志をうけついで、大きな成果をあげた人である。孫さんと同じ頃、廖承志の直接指導のもとに働いてきた呉学文氏は、孫さんを評して「有能な全方位、全天候の対日友好活動家」と定義した。全くその通りである。彼の対日友好活動は、政治・経済・文化各界を網羅し、貿易・農業・学術・宗教・体育・囲碁・蘭・京劇・バレー等々、およそ中日間の交流で孫さんが関与しなかった分野はない。「全方位」という所以である。「全天候」というのは、中日関係の上空に黒い雲が立ち込めている時も、くもりのち晴の時も、孫さんは、中日関係改善のため全力を尽くしたからである。

 孫さんの努力と活動の成果に正比例して、周恩来、廖承志の孫さんに対する信頼も厚かった。いつも、大事な役目を彼に与えた。中日国交正常化(1972年9月29日)の直前に訪日した<上海バレエ団>の団長に孫平化を任命したのは、周恩来である。孫さんは、<覚書貿易東京事務所>首席代表の肖向前とともに、田中角栄総理、太平正芳外相と会見して、周恩来の伝言をつたえ、田中、太平の9月訪中の確約をとり、中日国交正常化の実現にこぎつけた。歴史にのこる大きな仕事であった。

 孫さんが会って話をした日本人は数え切れない。彼の日記には1頁ごとに平均3~4名の日本の友人の名前が出てくる。我々のよく存じ上げているなじみ深い友人の名前もあれば、全然知らない人の名前も出てくる。孫さんの日本における知名度は、日本の与野党の代議士たちの遠く及ばないところであろう。

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 孫さんは、後輩たちを分け隔てなく可愛がった。後輩たちも、孫さんに対しては、遠慮というものを知らなかった。後輩たちが仕事の残業で遅くなったり、あるいはどこかで遊びふけって夕食の時間が過ぎてしまったときは、「本司胡同に行こう」というのが合言葉になっていた。「本司胡同」とは、当時、孫さんの自宅があった横町である。まだ携帯電話のなかった頃だったから、何の前ぶれもなく、しかも集団で押しかけていく。玄関に入ってくるなり、「先輩!腹が減っています」と叫ぶ。当時、独身の若輩たちにとっては、北京市内に飯屋も少なく、皆が薄給に甘んじていた時代だから、職場の食堂の時間を逸したら行くところがない。孫さんの家にたかりに行こうというわけである。今にして思えば、孫夫人の関毅さんにとっては、甚だ迷惑なことだったに違いない。孫さん夫婦の給料は我々よりは多かっただろうが、それほど多いものではなかったはずだ。この悪童たちのたびたびの襲撃のため、孫さん一家は、ふだん人一倍きりつめた生活を強いられたに違いないと思う。関毅さんは、その頃、ある貿易公司の課長をしていて、本人の仕事も忙しかった。孫さんは出張が多かったから、一人で子供たちの世話と教育をうけもち、内助の功は大きい。

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 孫さんは、日本事情と中日関係史の生き字引きだった。日本に関すること、とくに戦後の中日関係に関する知識は、すべてきちんと整理されて孫さんの頭の中の引き出しに収まっていた。彼の記憶力は抜群であったが、それは彼の天分であるというよりも、むしろ彼の努力の結果であった。つまり、自分の体験したこと、見聞したことのうち、大事なものは忘れないうちに書き留める。書くという作業を通じて自分の記憶をより確かなものにする。もう一つの方法は、自分が聞いた周恩来、廖承志の指示、あるいは日本の友人の話を、職場の会議で部下たちに伝える。書き留める方法と自分の頭の中で整理したものを後輩たちにしゃべることによって、記憶したことを頭脳というコンピューターに入力してしまうのであろう。

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 数年前、中日関係史学会は、『友誼鋳春秋-新中国に貢献した日本人たち』という本を世にだした。戦後、中国に残って中国の革命と建設に貢献した日本人たちの功績を忘れないためである。この本の編集のため大きな協力をしてくれた日本側の世話人である金丸千尋・花薗昭雄の両氏が、打ち合わせるため訪中したとき、仕事が終わり帰国する前の半日、いわゆる「自由行動」の時間になった。この時間は、友誼商店などに行って買い物をするのが普通だった。金丸、花薗のお二人は、この時間に孫さんのお墓参りをしたいと言い出した。孫さんにはお墓がない。孫さんが、生前、ノートにしたため遺言に従い、お墓を作らず、北京市郊外の<中日友好人民公社>の入り口にある松の木の根元に遺骨を埋葬した。この松の木は、<中日平和友好条約>締結を記念して、孫さんが廖承志さんと一緒に記念植樹したものである。孫さんは、自分の恩師廖承志と一緒に汗を流した場所で永眠したかったのであろう。この日、私は、金丸・花薗の両氏を案内して現場に行ったが、お二人は、いつ、どこで用意したのか、綺麗な花を植えた植木鉢を持って来ていて、この辺だろうと見当をつけて、松の木の前に供えて手を合わせた。孫さんの歿後も孫さんを慕う日本の友人は多い。

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 孫さんが、生前、中日友好のため全力をあげて奉仕したことは人々のよく知るところだが、歿後も中日友好のため貢献し続けていることは知らない人が多い。それは、<宋慶齢基金会>の系列にある<孫平化日本学術奨励基金>である。これは孫さんの臨終の直前とどいた<日本国際交流基金>の奨励金と、病床にあって口述して<日本経済新聞>に連載された『私の履歴書』の原稿料などを、孫さんの遺志に従って基金にしたものである。永眠してから日本各界から頂いた香典も、遺族が基金に加えて今日まで運用され、若い優秀な日本学の研究者を育てている。孫さんは、生前、多くの若者を教育した良き指導者だった。唐家璇元国務委員も、長年、孫さんの直接指導を受けた者の一人である。

 そして、今、孫さんは、中日友好のために活躍している若者たちを、天国から嬉しそうに見つめているに違いない。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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