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日中交流を語る④ ふるさとの訛なつかし

 石川啄木の短歌に、「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみのなかに そを聴きに行く」というのがある。啄木がそれほどなつかしがった彼のふるさとの方言は、一体どんな訛なのか。それが俗にいう「ズーズー弁」であるというぐらいは知っていた。しかし、その本物を聴いたことはない。

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 ある日、私の好奇心を満足させる時がついに来た。社会党の佐々木更三委員長が、多くの国会議員と一緒に訪中され、その歓迎晩餐会に私も出席した。主人側の歓迎の言葉がおわり、佐々木委員長の挨拶があった。実に見事なズーズー弁であった。訛はあるが、私にも聴いてよくわかる言葉である。たしかに、これも完璧な日本語だ。標準語より素朴な感じで、佐々木先生独特の愛嬌がある。

 その翌日の会合には、私は、出席しなかったが、出席者の話によると、佐々木先生のお話の最中に、日本側代表団の中の一人が「日本語でしゃべれ」という野次をとばしたそうである。在席の日本人はドッと笑ったが、通訳を通して聴いていた中国人は、誰も笑わなかったという。佐々木先生は、帰国後、記者団に向かって「私の日本語は、中国では一番よく通じました」と語った、と日本の新聞に載っていた。その後、資料を調べたら、佐々木先生は、岩手県ではなく宮城県出身だった。

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 1971年の秋、私は、もう一人見事なズーズー弁に出会うことができた。渡部恒三先生である。日本の新聞記者たちは、佐々木先生を「ササコウ」と呼び、渡部先生を「ワタコウ」と略称しているようである。ワタコウ先生は、後に閣僚を経験し、衆議院副議長に就くなど大物政治家になるが、その頃は、まだ一年生議員だった。川崎秀二先生が、一、二年生議員だけを選んで組織した訪中団の一員である。私は、その代表団の接待側のお手伝いをした。

 代表団の到着後間もなく、頤和園の遊覧に出かけることになり、私も同行した。訪中団の皆さんと顔なじみになるいい機会である。いよいよ万寿山にのぼることになって、ワタコウ先生は、自分は病気で退院したばかりなので、山のぼりはやめて下で待つと言う。中国側の接待員は皆先に行ってしまい私の行動が一番遅かったので、私は下に残ってワタコウ先生と二人きりになった。

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 その頃、丁度、福田赳夫先生が東京大学付属病院で胆石の手術をし、その胆石が白かったので、自分の腹は黒くない、と会う人ごとに見せたという話が伝わって来ていた。それで私は、「先生も東大病院に入院されたのですか」、とワタコウ先生にたずねた。「いや、私は日本にとってもっと大事な体なので、もっといい病院に入院しました。慶応大学の病院です」。これがワタコウ先生の初対面のあいさつであった。慶応病院と東大病院とどちらがすぐれているかは別にして、私はその気宇に呑まれた感じである。

 その後、連日行われた会合でも、彼と中日関係について大いに議論したが、ワタコウ先生の発言は、おだやかなようで内容はなかなか鋭い。彼のトレードマークといわれたズーズー弁は実になめらかである。聞いていて心地よいし、人を引き付けるものがある。しかし、彼も岩手県ではなく、福島県の会津である。

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 本当に本物の岩手弁が聞けると思ったのは、東京に赴任してから、時事通信社によばれて盛岡で講演したついでに、啄木のふるさとである渋民村につれていってもらった時である。しかし、私の期待は百パーセントはずれた。盛岡のホテルの従業員も、渋民村の土産屋の売り子のお嬢さんも、皆立派な標準語で応対し、訛が全然ない。これは、テレビの普及の結果であろうと想像し、中国ではそれが何時になったら実現するだろうか、と思った。

 1978年の改革・開放以後、テレビの普及は意外に速く、今では、全国の小学校で「普通話」(標準語)による授業が可能になり、広東に行っても、福建に行っても、若い人たちとは通訳を介さないで会話ができる。中国の漢字を統一したのは、秦の始皇帝であるが、中国の話し言葉を統一したのは、実はテレビなのである。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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