会員登録

マテオ・リッチの幾何学が日本語に

 マテオ・リッチ(MATTEO RICCI、1552~1610)の逝去400周年の展覧会が、北京市の<首都博物館>で、2010年2月7日から3月20日まで開かれていると聞いて行ってみた。

 マテオ・リッチは、1552年イタリアの東海岸に位置しているマチェラタ(MACERATA)地方に生まれた。生まれつきの学問好きで、1568年(16歳)からローマで法律を学ぶと同時に、ドイツ人の指導教師クリストフ・クラビウス(CHIRSTOPHE CLAVIVS)について数学を学び、地理・農業・紡績・航海・機械・天文学などの基礎知識も身につけた。

 25歳になったとき(1577年)、マテオ・リッチは、東洋に行くことを志して、ローマを出発、ポルトガルに行った。そして、ポルトガルの船でリスボンを出発、ブラジル→ケープタウン→モザンビーク→マラッカなどを経由して、ゴアに向かった。その船には、ポルトガル人7人、イタリア人6人が乗っていたが、神父の資格をもっていないものは、マテオ・リッチ1人だけだった。1578年9月、ゴアに着いたマテオ・リッチは、印度人学生にギリシャ語とラテン語を教えながら、神学を勉強して神父の資格を取った。

※            ※            ※

 神父になったマテオ・リッチは、中国に行って宣教師として活動するため、1582にマカオに行き、広東省の肇慶・韶州などで布教活動をしてから、1601年1月北京に着いた。その間、中国語を猛勉強して、中国の古典が読めるほどに上達した。北京に着いてから、マテオ・リッチは、明の万暦皇帝の知遇を得て、<紫禁城>の中に住み、多くの著書や訳書を世に出し、中国の文化を西洋に紹介し、西洋の文化を中国に伝える最初の人となった。

 彼の著作で特筆すべきは、彼が中国の学者・徐光啓の協力を得て訳した『幾何学原本』である。これは、マテオ・リッチの恩師・クラビウスが、1574年に書いた幾何学教科書である。何故、Geometryを幾何学と訳したのか。徐光啓は、上海人だから、幾何を上海語の発音で「ジオ」と読む。この幾何学がそのまま日本に渡って日本語になった。

 社会科学の分野では、明治維新以後、日本で先に漢字に訳され、それがそのまま中国語に導入されているが、幾何・代数などはマテオ・リッチが訳した中国語が先で、それがそのまま日本語になっている。

※          ※          ※

 <中国中日関係史学会>の会員学者の研究によれば、徳川幕府の八代将軍吉宗は、毎年、学者を中国に派遣して、中国で出版されている本を買い集めたという。とくに、吉宗が欲しがっていたのは、中国語に訳された西洋人の書いた本だったといわれている。当時の日本の知識人なら、中国語の文語文が、全部、原文で読めたはずだ。中国で出版された本が、日本にわたるルートは、徳川時代すでに出来ていたのである。

 マテオ・リッチは、1610年5月11日、北京で亡くなった。万暦皇帝は、北京の<阜成門外>の一角に土地を賜ってマテオ・リッチの墓地にした。今でもそれは完全に保存されている。

 因みに、八達嶺の<長城>に行く途中にある<明の十三陵>の地下宮殿に、万暦皇帝の陵墓である。

 上海の高級住宅街<徐家匯>という地名は、徐光啓一族が住んでいたからだといわれている。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

関連内容

丁民先生が語る中日交流(6)
丁民先生が語る中日交流(5)
丁民先生が語る中日交流(4)
丁民先生が語る中日交流(3)
丁民先生が語る中日交流(2)
丁民先生が語る中日交流(1)