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渋民村

 東京の中国大使館に勤務していた頃、ある日あるパーティーで日本外務省の橋本恕・アジア局長と顔をあわせた。彼は、時事通信社主催の盛岡の勉強会で講演することになっているが、私に一緒にいかないかとさそった。二人で半分ずつしゃべろう、というのである。二人で北へ行く「弥次喜多道中」も面白いではないか、とも言われた。

 私は、共同通信主催の勉強会にはたびたび出ていたが、時事通信の勉強会というのは初めてなので、二つ返事で賛成した。ところが、出発間際になって、ブルネイの王様が訪日されるので、アジア局長は抜け出すことができなくなり、浅井基文・中国課長が、局長の代理で私と同行することになった。

 浅井氏は、優秀な外交官でありながら学者肌の人で、仕事熱心というよりも研究熱心で、中国の学界の動向などについては、私より詳しかった。しかも、彼は、北京の日本大使館勤務経験者で、気心が知れているし、私にとって、無論、異議はない。

 出発の前日、中日友好協会秘書長の黄世明氏が訪日して、鈴木善幸先生がホテル・ニューオータニの近くの<福田家>でご馳走してくださることになり、私もそれに陪席した。黄氏は、北京で鈴木先生訪中の接待役をしたことがあり、話ははずんだ。私は、鈴木先生の選挙区が岩手県だったことを思い出し、「実は、明日、盛岡に行くことになっているんですが、渋民村は盛岡からどの位の距離がありますか」とたずねた。あまり遠くなければ、盛岡に行ったついでに、是非、石川啄木のふるさと・渋民村に行ってみたい、と思ったからである。鈴木先生は、「来るまで三十分もあれば行けますよ」と、答えて下さった。

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 私が、啄木の歌集をはじめて読んだのは、中学二年生のときで、一時期、放課後は、毎日、それを読みふけった。文庫文だったように思う。とくに記憶に残った歌が三首ある。

ふるさとの 小学校の柾(まさ)屋根に

 わが投げし球 いかになりけむ

盛岡の 中学校の露台(バルコン)の

 手すりにもう一度 我をよらしめ

たわむれに 母を背負いてそのあまり

 軽きに泣きて 三歩あゆまず

 この三首は、その場でおぼえてしまって、未だに忘れない。「柾屋根」とはどんな屋根か、中学校のバルコンはどんな形のものだったのか、一度は行ってみたい、と思ったりした。

 盛岡の空港に着いたら、時事通信の盛岡支局長が出迎えに来てくれていた。ホテルまでの車の中で、彼は、二泊三日の日程の説明をしながら、講演会は明日の午後になるが、それまでの半日あまりは空けてあるので、どこかに案内したい、と私の希望を聞いて来た。私は、迷わず渋民村に行きたい、と答えた。

 翌日、渋民村に行く前に、先ず、市内の盛岡中学校跡に案内してくれた。中学校はもうそこにはなく、銀行の建物が立っていて、その街角に「盛岡中学校跡」と書いた杭が一本立っていた。都市の発展にともなって、中学校は移転を余儀なくされたのだろうと想像し、やむを得ないことだと納得した。杭を立ててくれているだけでも親切だ、と思った。

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 いよいよ渋民村に着いた。行ってみてわかったことは、実は渋民村はもう存在しないのである。町村合併で他の村に吸収されてしまっている。なんという思慮の浅いことをしたものだろう、と思った。しかし、私が、数十年間見たいと思っていた小学校は、啄木の生家とともに、他の場所から校舎だけまるごと移転してきて展示してあり、「柾屋根」の実物を見て大いに満足した。だが、そこには昔の渋民村の面影は全くない。小さな高台に観光バスが十台以上も同時に駐車できるであろう広々とした駐車場と、近代化した建物の「石川啄木記念館」と、大きな鉄筋コンクリートの休憩室兼お土産売り場のそばに、啄木の生家と小学校があるのみである。村民の姿は見当たらない。

かにかくに 渋民村は恋しかり

思い出の山 思い出の川

 あれほど啄木が恋しがったふるさとは、山や川は昔のままであろうが、渋民村はどう名実ともに存在しない。高台から谷間をのぞんだら、北上川がみえた。「やわらかに 柳あおめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」と歌ったあの岸辺に柳はなかった。おそらく汽車の中で詠んだ歌だろうから、どこか他の場所の岸辺にあったものかも知れない。とにかくこの高台に立って、もうこの地方からは啄木のような偉大な詩人は生まれてこないかも知れない、と思った。そして啄木のような天才が貧困を強いられた明治時代の日本社会は、あまり良い社会ではなかったのではないか、とも思った。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。