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チベット教育の発展(四)

2009-03-06 12:15:24     cri    
 ダライラマ13世がポタラ宮殿で自ら試験官となる

 近代に入り、政治と宗教を一体化した封建的な農奴制度が実施されていたチベット社会はますます、腐敗していきました。多くの僧侶はその志しを俗世に向け、政治活動への参加意欲が高まっていました。僧侶間に権力闘争が絶えず、静かだった寺院が権力と利益を争奪する場所となり、仏教教育は単なる形式にとどまることになりました。

 貴族出身の僧侶は遊んだり、賭博をしたり、権力をかさにきて人を欺いたりしました。一方、農奴出身の僧侶は生活にあえぎ、田舎へ仏事に出かけたり、物乞いをしたり、あるいは出稼ぎにいったりしていました。寺院の戒律は乱れ、寺院教育では権力と金銭のやり取りが横行し、仏教の最高学位「コシ」をお金で買うなど、仏教は衰退しました。

 当時のダライラマ13世だった、ユンテン・ギャムツオはラサの三大寺院の上層僧侶を厳しく訓示し、寺院の教規を厳格に守ることを要求し、違反者を厳罰するとしました。1913年、ダライラマ13世はは寺院の管理を強化する条例を公布したものの、度重なる教規違反や試験でのカンニングなど事態はが深刻なものでした。1928年、ダライラマ13世はポタラ宮殿で自ら試験官となり、寺院の住職に質問しましたが、ぜんぜん答えられませんでした。翌年、ダライラマ13世はまた、自らラランバコシ学位の試験監督をしました。受験者の多くはレベルが非常に低く、試験に参加する資格さえもないことが判明したのです。ダライラマ13世は賄賂を受けた各大寺院の住職を厳罰に処しました。それからの数年間、寺院の整備を続けましたが、効果はあまりありませんでした。

 20世紀の初め、イギリス帝国主義勢力はチベットを侵略し、チベットを中国から分割し、植民地にしようとしていました。ダライラマ13世はチベットの人民を率いて近代的な兵器をもつ英軍と勇敢に戦い、無数の流血と犠牲によって、イギリス帝国主義の企みを打破しました。英軍の侵略に抵抗する間、ダライラマ13世は2回にわたって中国内陸とインドを回りました。それによって、チベットが立ち遅れていた原因は近代的な科学技術の知識や人材が欠けていることにあるとわかりました。

 それから、ダライラマ13世はチベットの教育を発展させ、科学技術人材を養成する一連の措置を講じました。チベットの各県ではチベット語小学校を設立し、貴族や庶民を問わず、チベット族出身者は誰でも入学することが出来るとしました。また、教師の給料は地方政府によって支給することを命じました。しかし、当時、チベットの封建的な農奴制度や上層の保守勢力の抵抗によって、この決定が完全に実施されることは出来ず、ごく一部の地方でチベット語の小学校が作られました。しかし、これはチベット語の普及やチベット地域の教育の向上に積極的な意義を持ちました。(トウエンカ)

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