中国南の湖南省長沙市に湖と山に囲まれた古代建築群があります。ここは1000年の歴史を持つ古い大学岳麓書院です。岳麓書院は創設されてから、今日まで、すでに、いく世代にも渡って中国のために優れた人材を育成してきました。その開放的な教育方針は中国の教育に深い影響を与えてきたのです。
岳麓学院という名前は風景が美しい岳麓山のふもとに位置していることに由来して、その歴史は1000年余り前の北宋の時代までにさかのぼります。当時各勢力の分割と拡張などが収まり、国家政治は安定し、文化教育の繁栄にはよい条件となりました。また、当時の岳麓山は仏教や道教の聖地で、寺院が林立していました。そして人々の学習への願いも非常に強いものだったのです。静寂な岳麓山は読書や学習のよい場所となりました。やがて大勢の文化人や学者がここに居住するようになったため、寺院の中の学院には人々を収容しきれなくなりました。そこで、一部の僧侶が寺院の外に学院を設け、図書を買い入れ、人々に読書の場所を提供しました。こうして初期の書院が誕生したのです。
紀元976年、当時の潭州(現在:長沙)郡の長官だった朱洞太守は僧侶たちの作った学堂を書院に拡張し、その管理権を僧侶から文人へと移しました。それから、岳麓書院が正式に設立し、一定の規模を持つ文化教育の基地となりました。1015年、創設されてからわずか40年で、岳麓書院は教育の面ですぐれた成果を上げたため、当時の皇帝の表彰を受け、一挙に有名になりました。これについて湖南大学岳麓書院の鄧洪波教授は「11世紀の初期、岳麓書院は学術講演や祭祀、蔵書、(学校を維持するための官田)学田という4つの基本的な規制を一体化した学院となりました。宋の時代の宋真宗皇帝は都の開封で岳麓書院の学長に一枚の額を賜り、表彰しました。それから、岳麓書院は当時の有名な4大学院の一位となったのです」と語りました。
その後も、岳麓書院は数回にわたって皇帝から表彰を受けました。これは教師を尊重し、教育を重視する当時の中国では、きわめて高い栄誉と言えます。このほか、歴代の役人や富裕層を始め、一般庶民も岳麓書院のために農地の購入に力を貸したり、校舎の建築やお寄付をしたりしました。また、政府や民間からの支援のほか、書院は自給自足の経済システムを確立し、書院の農地を農民に貸し出して、収益を獲得し、教育費にあていました。これについて、鄧洪波教授は「当時、商品経済は発達していませんでしたので、教育経費は主に農地の貸し出しによって確保されていました。書院は設立された当初、政府に水田を賜ったので、大部分の経費は解決され、書院を1000年も維持できたのです」と語りました。
1926年、岳麓書院は正式に湖南大学に名称を変更し、新中国成立後、毛沢東主席が学校のために校名を書きました。現在、学校には200人の教師と学生が在籍しており、中国の伝統文化の研究を主として、歴史や哲学の学科が設けられています。また、岳麓書院は中国人のほか海外からの留学生にも注目されています。(董燕華)
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