12日間にわたる北京パラリンピックが、幕を閉じました。76の国や地域の選手たちが、メダルを分かち合いました。選手たちが想像を超えるほどの困難を乗り越え、戦い、そして表彰台に立つまで、ずっと選手たちを支え見守ってきた人たちがいます。選手たちが成功すれば心から祝福し、選手が失敗すれば彼らに負けないほど悔しさを表しています。パラリンピックが終わると彼らはチームとさよならして、次の人生を歩いていきます。彼らは、コーチでもなければ、ボランティアでもありません。彼らは、選手とともに戦っているのに名前さえ知られない介護者たちです。
9月14日の車椅子ラグビーの競技場。中国と日本の代表は、2回戦進出をかけて熱戦を繰り広げていました。ラグビーに負けず劣らず、激しく体がぶつかり合います。このため、選手たちの車椅子はしょっちゅうパンクします。中国代表がタイヤの交換を要求するたび、一人の中年男性がすぐ予備タイヤと工具を持ってコートに入りました。わずか数秒でタイヤ交換が完了します。車椅子が横転して立ち直れない時も彼がすぐ手伝いに行きます。
この中年男性は、今年40歳になるヒョウ一寧さんです。日頃の仕事を簡単に説明してくれましたが、実に大変な仕事です。例えば、32分の試合の中に、30回もタイヤ交換をしなければなりません。しかし、彼の仕事はこれだけではありません。
車椅子選手の大部分は、下半身不随のうえに、汗で水分を排出する機能も衰えています。時間が長くなると、無意識に排尿してしまいます。ですから、車椅子選手の場合、練習は2時間ごとに1時間くらい休憩しなければなりません。休憩時間の選手たちの着替えや体を洗うのもすべてヒョウさんの仕事です。
また、試合が終わると、ヒョウさんは選手たちにとって更に欠かせない存在になります。便秘になった人を潤滑剤を使って手伝ったり、排尿できない人を導管を使って導入したりします。
夜になると、2時間ごとに見回りをしなければなりません。選手の寝返りを手伝うほか、尿がたまるビニール袋を交換するのも日常の仕事です。
北京パラリンピックでは、中国チームは日本チームに負けて2回戦進出はなりませんでした。パラリンピックが終わった後、中国チームは解散しますが、臨時職員のヒョウさんはまた新しい就職先を探さねばなりません。しかし、ヒョウさんの一番の関心事は、中国の車椅子ラグビーチームがロンドンパラリンピックに進出するかどうかです。彼は、「また頑張ってほしい。ロンドンパラリンピック大会に一緒に行きたい。必要とされれば、私は喜んで一緒に行く」と語りました。
パラリンピックのボッチャは、オリンピック大会には存在しない種目です。ボッチャは、ヨーロッパで生まれた重度脳性麻痺者もしくは同程度の四肢重度機能障害者のために考案されたスポーツです。 目標球と呼ばれる白いボールに、赤・青のそれぞれ6球ずつのカラーボールを投げたり、転がしたり、他のボールに当てたりして、いかに近づけるかを競う競技です。車椅子が頼りの選手たちは、運動障害にかかっています。ある選手は、手でボールを握ったり、調整したりするという動作すらできません。口で支えるあるいは頭の上で固定したランプスを使い、自分の意思を介助者に伝えることができれば参加できます。介助者たちは、選手と一緒に試合に出場しますが、終始観客に背中を向け、出場リストにも名前を挙げられません。ロマンスダさんは、チェコ代表チームの介助者です。介助者の仕事をロマンスダさんは、「介助者は、チームに欠かせない存在だ。ボールを運ぶ軌道を調整したり、合図を受けホールを放したりする。多くの選手たちが言語障害のために、言葉で交流できない。だから、介助者たちは、選手たちの特別な合図を理解しなければならない」と語りました。
選手と介助者がスムーズに交流し、試合ができるまでに最低でも数ヶ月、大抵1年間以上が必要です。相当な熱意と愛情が必要でしょう。
北京パラリンピックでは、ヒョウ一寧さんとロマンスダさんのようにたくさんの人が選手を支える重要な役割を果たしていました。彼らが全身全霊で選手をサポートすることにより、選手たちが試合に集中(することができ、好記録につながっているのでしょう。彼らは、北京パラリンピックでの無名の英雄と言えるかもしれません。
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