北京五輪の始まる前、日本でも話題になっていたものの一つに、競泳選手の水着問題がありました。イギリスのメーカー「スピード社」の開発した水着を着用した選手達が好記録を続出し、日本製の水着も早期の対応を迫られましたが、対応できずに日本選手の多くも本来着用する予定の無かった「スピード社」の水着を着て出場することになりました。スポーツメーカーとの契約が絡む、一流選手ならではの近年特有の問題ではありますが、この水着問題も含めて、体操や女子レスリング等でも勝負の行方を左右するようなルール変更がアテネ五輪から北京五輪に至るまでには行われきていました。
北京五輪の始まる前にたまたま知り合ったTさんはかつて大手繊維メーカーに勤められていて、今回の水着問題の真相を良くご存知でした。「本来は水着に使う生地には有利に水をはじく張り合わせ製法は許可にならなかったが、今回は急に許可になり、その情報を事前に入手できなかった日本の各メーカーはすぐには対応できなかった。」Tさんは内情を説明してくれ、最後に「ルールの範囲内で最高の技術を求め、世界をリードする自信があった日本メーカーだったが、外国はルールそのものを変えてしまった。」と残念がっていました。
同じようなことが体操の採点法にも見られました。長い体操競技の歴史の中でずっと続いていた10点満点という基準も、アテネ五輪で日本が団体王者に返り咲いた後の世界選手権から、満点という概念そのものが無くなりました。このルール変更により、姿勢欠点の少ない美しい体操を目標に素晴らしい伝統を築いて来た日本の体操界も大きな転換を迫られました。私は北京五輪の体操競技をテレビで見ながら、日本の選手達の演技をとても美しいと思いましたが、なぜか得点は伸びてきませんでした。そして、多少の失敗にもかかわらず高得点を出す外国選手の演技を見ながら、美しさ以上に高い難度の追求が求められる時代になってしまったということを実感しました。
オリンピックや世界選手権の歴史の中では、日本のスポーツ選手が活躍するごとに、世界の競技ルール基準も変わってくることはよくありました。柔道、体操、レスリング、冬季競技でもスキージャンプの板の長さや、スケートのスラップスケート靴、複合競技の得点等、ルールの範囲内で最高の技術を目指して努力してきた結果として日本が優勝すると、世界のルールが変えられるという宿命が日本のスポーツ界にはあるように感じます。
そんな中、見事に対応して活躍した選手達は本当に立派だと思いました。その中でも特に私は、体操競技の演技の中で、いつものクールな表情で素晴らしい演技を披露し続けた富田選手の演技に感動しました。富田選手の演技するときの表情は、私たちに「みなさんに本当に美しい体操をお見せしましょう」と訴えるような意地が感じられ、胸が熱くなりました。
メダルの獲得という目から見れば、ルール変更への対応の遅れは致命傷になるのかもしれませんが、選手達にとっては、ルール変更が大きなものであればあるほど、すぐには対応できません。私たちはともするとマスコミのメダル獲得報道に扇動され、スポーツ選手自身への配慮を忘れてしまうことがありますが、日本を代表してオリンピックに出場する選手ですら難しい対応を迫られるルールの変更による勝負の行方については、特に選手の皆さんに配慮した報道がなされてゆくことを期待したいと思います。
【プロフィール】
1957年生まれ 早稲田大学教育学部卒 筑波大学体育研究科大学院修士課程修了 専門スポーツは陸上競技 早稲田大学本庄高等学院 教諭 早稲田大学スポーツ科学部講師 2008年4月ー2009年3月 早稲田大学から北京大学への交換研究員
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