北京オリンピックで中国国民が最も期待し、楽しみにしていたものの一つは、陸上競技男子110ハードル、世界チャンピオン劉翔選手の活躍だったと思います。そして、私もその予選レースをテレビの前に座って楽しみに待っていましたが、残念ながら予選レース直前に棄権という、思ってもみなかった結果になりました。
この日の劉翔選手はスタート前に場内に入ってきた時からの表情が、5月に鳥の巣の中国国際オープン陸上大会で見たときとは全く別人のようでした。6月には、アメリカの大会で足を痛めたようだという報道もあり、心配はしていましたが、この入場の時の表情を見て、その怪我が深刻なものであることははっきりとわかりました。私はウオーミングアップを軽くしてからトレーニングウエアを脱いだ時の劉翔選手の脚に注目しましたが、テーピング等の様子はなく、肉離れではないのかと思いながら、走る前の練習ハードリングを見ました。カメラは横からのアングルでいつものように綺麗に2台のハードルを超えてゆく劉翔選手を映し出し、一瞬大丈夫なのかと思いましたが、跳び終わってから劉翔選手の表情が見る見る厳しいものになって行くのがわかり、これは大変なことになったと思いました。
ただ、画面に映るこの異変については中国のアナウンサーも全く触れず、スタンドの大観衆も彼が元気に走る姿のみをイメージしているようで、劉翔選手の怪我の情報が外部にあまり出ていなかったのかと思いながらスタートを待ちました。そしてフライングがあり、そのときのスタートからの動作でもう走れないと判断した劉翔選手は腰ゼッケンのシールを自らはがして退場して行きました。
テレビのアナウンサーもスタンドの観衆もあっけに取られてその光景を見ることになり、騒然とした雑音の中、2度目のスタートの号砲が鳴り、選手達はスタートして行きました。この組の他の選手達には申し訳ないような、どうにも止めようのないざわめきが場内を包んでいました。
この劉翔選手の棄権についてはこれから多くの報道がされて行き、実際の状況がわかってくると思います。本当に予想もしていなかった展開になり、当日のチケットを努力して買った人を含めてがっかりしている人も多いと思いますが、私はスポーツに怪我はつきものだと思いますし、棄権せざるを得なかったのは仕方ないことだと思っています。
このような状況になって、私が改めて感じることは、劉翔選手がこれまでの選手生活で乗り超えてきた壁がいかに大きなものであったかということです。劉翔選手は、欧米の選手やアフリカ選手が圧倒的に強い陸上競技の中でも、特にアメリカの独壇場であった110mハードルという種目でオリンピックで優勝し、世界記録を破り、中国だけでなくアジアの人々に希望を与えてくれました。
北京五輪の開催が決定してから2008年の開催までの準備期間の中で、アテネ五輪や世界選手権の優勝により劉翔選手の果たしてきた役割は中国スポーツ界にとって非常に大きなもので、北京五輪開幕以来現在まで続いている中国選手の大活躍を引き出したのも、中国の若いアスリート達に勇気と自信を与えてくれた彼の功績だと感じています。北京五輪本番での活躍は見果てぬ夢となりましたが、怪我による欠場で劉翔選手のこれまで成し遂げてきた輝かしい競技経歴に傷がつくことはないと私は思います。
そういった意味でも、私はぜひ閉会式に劉翔選手に登場していただきたいと思います。
北京オリンピックの期待を一身に背負いがんばってきた成果が、多くのアスリートに広がり、これほどまでに中国の人々を元気づけ、成功へと導いていったのだということを閉会式で肌で感じていただきたいと思います。中国国民に与えてくれた勇気を今度は中国国民から、そして世界中の人々から受け取って、再スタートを切ってもらえればいいなあと思っています。そしてそうすることが世界の人々がオリンピックの精神を再認識することにつながり、メダル争いで世界の頂点に立つであろう中国スポーツの、北京五輪後の新たな時代のスタートにもつながってゆくのではないかと思っています。
【プロフィール】
1957年生まれ 早稲田大学教育学部卒 筑波大学体育研究科大学院修士課程修了 専門スポーツは陸上競技 早稲田大学本庄高等学院 教諭 早稲田大学スポーツ科学部講師 2008年4月ー2009年3月 早稲田大学から北京大学への交換研究員
|