煙台は昔、芝罘と呼ばれた。ここには約2万年前に人類が生息、繁栄していたことがわかっている。3000年以上前の夏、殷(商)の時代以来、中国の歴代王朝はここに対する統治を極めて重視してきた。『史記』の記載によると、秦の始皇帝は中国を統一した後、3回も芝罘半島に上陸し、不老長寿の薬を探し求めたという。また漢の武帝も芝罘に光臨し、天子に即位する大礼を行った。
黄海に面して開発された煙台経済技術開発区は、21世紀に中国が重点的に開発する渤海経済圏の中で、重要な成長地点となろう(同開発区提供)。
紀元631年には、日本からの最初の遣唐使も芝罘半島に上陸した。現在も、多くの国々が使っている海図には、依然、煙台のことを「芝罘」と表記している。
「先に芝罘ありて、後に煙台あり」というように、1398年(明の洪武31年)、倭寇の襲来を防ぐため、芝罘に 「狼煙カユ台」(のろし台)が築かれ、「狼煙台」とも言われた。これが「煙台」の名の由来である。
昔から煙台は、商人が雲集する商業の盛んな都市であり、貿易港であった。歴史資料の記載によると、2000年以上前の春秋時代、ここは五大港の一つであった。隋唐時代には、ここには中国北方で一番大きな港である登州港があり、高麗や日本の使節が往来し、商業貿易が行われる重要な港湾だった。中国の絹織物、冶金、製紙などの技術が煙台から朝鮮や日本などに伝えられた。このため煙台は「海のシルクロード」の東方の起点と称せられる。
アヘン戦争以後の1861年、煙台は開港と通商を迫られ、英、米、独、仏、日、デンマークなど17の国々が相前後してここに領事館を設立し、産業を興した。これによって煙台は、中国近代で最初に対外開放された港湾の一つとなった。今でも、煙台には、外国の領事館、別荘、公邸など30以上の近代ヨーロッパ風の建築物が残っている。
開港後、大量の外国の品種が煙台に入ってきた。たとえばナシ、サクランボ、リンゴ、ブドウなどである。今では、煙台のいくつかの農村が、「ナシの里」とか「ブドウの里」とか「リンゴの里」とか呼ばれている。
アジア最大のリンゴの交易センターである煙台栖霞リンゴ卸売市場は、毎年、15万トンのリンゴを東南アジアに輸出し、東南アジアのリンゴ市場の30%を占めている。19世紀に、煙台に根を下ろした張裕葡萄酒公司は、煙台でもっとも有名な企業に成長し、煙台は「国際葡萄酒の街」という名誉ある名前を獲得している。
煙台市内には、海に面して静かで清潔な住宅が立ち並んでいる
開港から140年以上経ち、今日の煙台地区はすでに中国北方で生き生きと活動する港湾都市の一つとなった。煙台地区の長い海岸線にある九カ所の港は、年間取扱量が2300万トンに達する。このうち煙台港だけで1250万トンで、中国の十大商業貿易港の一つに数えられている。港を通じて煙台は、百以上の国々や地域との直接通航を実現するとともに、米国のサンディエゴ市、日本の別府市、韓国の群山市などと友好都市関係を結び、日本の宮古市とは友好協力都市関係を樹立している。(「人民中国」より)
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