甲骨文字を通して、3,300年前のある人物像が明らかにされています。この人物は、中国最初の女性将軍で「婦好」といいます。彼女は武丁王の3人の奥さんの中の一人ですが、王の代わりに軍を率いて、度々戦場に赴いたそうです。率いる兵士たちは、最も多いときは、なんと1万3000人もいたそうです。学者によれば、1万3000人とは、当時の殷王朝全体の人口の10分の1にあたります。甲骨文字で彼女が出陣した戦争の場所や規模、彼女が妊娠して王が大変喜んだことや、若くて死んだ後、王が悲しんだことなどが、はっきりと記されています。
王の寵愛を受けていた婦好は、わずか33歳でなくなりました。そして驚いたことに、彼女は墓地ではなく、王のすぐ近くの宮殿の敷地内に埋葬されたのです。そのお墓から、青銅器、玉、骨、貝、石、象牙細工など、おびただしい埋葬品1928点が出土されています。その中からは、お酒に関連する器が数多く発見されました。杯やお酒を温めるものなど、むしろ、現代よりも、種類が豊富なような気がします。しかも、どれも非常に精巧な細工が施されているのです。お酒が好きで、颯爽としている婦好のイメージが涌いて来ます。
彼女が亡くなったあと、当時の武丁王が何度も何度も占いをして、「婦好はあの世で王家の嫁になったのか」と問うたそうです。あの世でも、なくなった王の妻になれれば、武丁王もさぞ安心するのでしょう。
殷は周によって滅ぼされたあと、殷民族は宋という場所に移住することを余儀なくされました。そのころの宋の土地は決して豊かではありませんでした。そこで彼らは商売を始めました。殷の王朝の正式名称は「商」ですから、殷が滅んだ後もこの人たちは「商人」と呼ばれていました。実は『商人』とか「商業」という言葉は、ここから始まったのです。
今回の取材で、もう一つ驚くことを聞きました。アメリカ大陸にいるインディアンという民族は、アジアからベーリング海峡を通って、北アメリカに渡ったという説があります。実は、インディアンは、国が滅んでよそへ移住しようと国を離れた殷民族の一部だったという説もあるそうです。インディアンの「イン」と「殷」が同じで、漢字でインディアンと書くと「殷地安」になりますが、「殷の国は安全だ」という意味になります。故郷を離れても、殷という自分の国が無事であるようにといつもお祈りして「殷地安」という言葉を口にしていたから、インディアンと呼ばれたのでしょうか。
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