劉半農(1891ー1934)は江蘇省江陰県生まれ。中国「新文化運動」の先駆者で詩人、著名な言語学者でもあります。
1891年、劉半農は江蘇省江陰県にある貧しい読書人の家に生まれました。15歳の時、常州の府中学堂に合格し、優秀な成績を修め、卒業。1911年には母校・翰墨林小学校の校長の招きに応じて、教員となりました。
1911年の秋、辛亥革命勃発後、革命軍に参加したものの、1912年、軍内部の混乱に不満を抱き、ふるさとに戻ります。そして、革命活動のための支援金を募るため、文明劇の公演を行いました。
1912年3月、弟の劉天華とともに、故郷を離れ上海にやってきました。翌年の春、中華書局の編集者となりました。その後、雑誌『小説海』、『小説月報』などに多くの翻訳作品と小説を発表したほか、1917年の5月と7月、陳独秀が編集長を務める雑誌『新青年』に、相次いで「我が文学改良観」、「小説精神上の革新」などの論文を発表しました。
1917年夏、北京大学の蔡元培学長の招きに応じて、北京大学予備科の教員となり、その後、『新青年』の編集に携わって、陳独秀や李大釗、魯迅、銭玄同らとともに、新文化活動を積極的に推し進めていきます。
1920年3月、ヨーロッパへ留学。当初はイギリスのロンドン大学、その翌年にはフランスのパリ大学に留学し、1925年には、フランス国家文学博士の学位を得ました。帰国後は北京大学国語学部の教授となり、合わせて中央研究院歴史言語研究所の研究員や北京補仁大学教務長を兼任しました。
劉半農は特に言語学に対する研究に熱心でした。例えば、現在よく使われている第三人称の人称代名詞「女也(彼女)」は劉半農が作った言葉です。この"彼女"を表す人称代名詞「女也」が出来る前は、三人称を指す場合、常に「他(彼)」を使っていました。このような混乱がないように、劉半農は女性の人称代名詞「女也」を作ったというわけです。こういった功績から、彼は中国現代言語史上、非常に重要な地位に位置付けられています。
著作には「半農雑文」、「半農談影」、「四声新譜」、「方言字典」、詩集「揚鞭集」などが残されています。また、彼は小アレクサンドル・デュマの名作「椿姫」を中国語に翻訳したことでも知られています。
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