陳三立(1853ー1937)江西省修水生まれ。中国近代史上最後の「伝統的詩人」と言われています。父・陳宝箴は清の時代の湖南巡撫でした。
1882年、29歳の時、科挙試験の郷試に合格し「挙人」、1889年36歳の時、「進士」となりました。1895年、陳三立は父親が実施している「新政」を補佐するため、湖北省の武昌から湖南省の長沙へ赴きました。湖南省にいた4年間に康有為、梁啓超、譚嗣同、黄遵憲ら維新派の人物と知り合い、譚嗣同、丁恵康、呉保初とともに、「維新の貴様4人」と呼ばれます。そして、民族と民主革命事業に対して彼は同情的、または支持の姿勢を取っています。また「時務学堂」を創設し、当時40名あまりの学生が在校し、こうした人はその後、ほとんどが孫文の指導する革命者となりました。そのうち、最も名が知られているのは、蔡鍔です。
「戊戍政変」失敗の後、陳三立とその父、陳宝箴が維新派として辞任させられました。その後、陳宝箴は西太后から自害を命ぜられました。父親の死は陳三立にとって大きな打撃となりました。そして彼はそれ以降、政治に対して大きく失望し、仏教や詩の世界に傾倒するようになりました。1924年、インドの詩人・「タゴール」が上海を訪問した時、わざわざ陳三立を訪ねました。アジアにある二つの古い文明国の詩人が杭州で会い、互いに詩集を贈り合い、ともに記念写真を取りました。
1936年、国際ペンクラブの総会がイギリスのロンドンで開かれ、中国代表も招請を受けました。中国政府は新文学の代表・胡適と旧文学の代表・陳三立の2人を派遣しましたが、陳三立はその年、既に84歳。健康上の理由で、結局、出席することが出来なくなりました。
1937年、「芦溝橋事変」が勃発。抗日戦争が全面的に始まりました。陳三立は日本侵略軍に妥協しない姿勢を見せ、絶食を実行。その5日後、亡くなりました。
|