李叔同(1880ー1942) 本名は文涛。1880年天津に生まれ。進士の家柄に育ち、家は塩の商売で生計を立てていました。詩歌に優れ、特に石鼓に刻まれた古文字の研究に熱心でした。また、書道、絵画、篆刻でも類い希な才能を持っていました。1898年、母と共に上海に移り、上海の南洋公学に入学。南洋公学では新学界の袁希濂、許幻園らと"城南公社"を創設しました。1902年の秋、彼は嘉興府平湖県の"監生"という身分で2度の科挙試験の郷試に参加しましたが、合格できず南洋公学に戻り、さらに勉強して、1904年に卒業。卒業後、穆怒斎らと「滬(上海の略称)学会」を創りました。1905年の秋、日本に留学し、上野の美術学校で西洋画、音楽などを学びました。1906年、同盟会に加入。日本の演劇家、藤沢浅二郎氏の指導の下、曾孝谷らと「春柳社」を結成しました。1910年に帰国し、天津模範工業専門学堂で美術教員として勤務。その後、天津から上海へ移り、城東女学堂の音楽教員となりました。中国伝統の水墨画と音楽に堪能であったため、浙江両級師範学堂、南京高等師範学校でそれぞれ7年にわたって教鞭をとりました。その間に編集した『春遊』『早秋』などの歌は外国の曲に新たに歌詞を加えて教材にしたものであり、中国早期の芸術教育に新風を吹き込みました。
1918年8月、三十九歳の時に杭州大慈寺で出家。法号は弘一。芦溝橋事変後、江蘇・浙江・福建の寺院を転々とし、権力者との付き合いを避け、仏道修行に励み、『戒本羯磨随講別録』、『互戒相経箋要』など数多くの著作を残しました。1942年10月13日福建省泉州の不二祠で帰寂。享年六十三歳でした。
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