章太炎は(1869ー1936)本名が章炳麟。中国近代史上の哲学者、国学者、社会学者です。浙江省杭州に生まれ。青年時代に戊戌変革を支持し、維新運動にも参与しました。1903年章太炎は上海で「愛国学社」で学ぶとき、章士〔金り〕、張継、シュー容と意気投合したので、人々に 「愛国学社」の四友と呼ばれていました。 1903年、「駁康有為論革命書」という文章を発表したことで当局に3年監禁され、後に日本に逃れました。1905年、孫文の民主革命の綱領を受け入れ、孫文の広東派、章太炎が中心となった浙江派、黄興が指導する湖南派の留学生が大同団結して8月、「中国革命同盟会」を結成するのです。1906年は同盟会の機関誌『民報』の編集長につとめました。辛亥革命後帰国しましたたが、孫文らと対立。1913年、袁世凱の帝政回復に反対するため、3年軟禁され、1917年以降、民主革命運動から脱退し、上海や蘇州などで学者として活躍し、晩年は蘇州で国学の研究に専念していました。
1902年社会学の先駆者である章太炎は日本の社会学学者・本能武太の著作「社会学」を中国語に翻訳し、これは中国で翻訳出版した最初の社会学著作です。この訳本と彼の考え方は社会学が中国での広がりに対して大きな役割を果たしました。1935年章太炎は蘇州で「章氏国学講習会」を開き、古代文学の研究に没頭でした。彼は特に「春秋」という経学に興味を示し、10年かけてそれを研究し続けていたということです。彼の一生には「古文尚書拾遺」、「春秋左伝読叙録」、「春秋左氏義問題」、「劉子政左氏説」、「太炎文録」など多くの著作を書き、後世に編纂したのは『章氏叢書』などがあります。1936年蘇州で亡くなり、67歳でした。
今、浙江省の杭州では彼を記念する「章太炎博物館」があり、彼の原稿や写真などが展示され、資料が一番そろっているところです。
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