呉昌碩(1844ー1927)は中国近代史上、稀代の芸術家です。詩や書道、絵画、篆刻いずれも精通し、それぞれ独自の流派を作り出し、後世に大きな影響を与えました。
呉昌碩は浙江省孝豊県に生まれました。祖父と父の二人が清の時代の挙人(科挙の合格者)でした。
10ー16歳までは安定した生活を送り、塾に通って古文を学ぶと同時に、篆刻に興味を持ち始めました。17歳の時、「太平天国運動」が起き、「太平軍」が安徽省から浙江省に迫ってきて、清王朝の軍隊と激しい戦いを展開しました。戦火から逃げるため、一家は故郷を離れ、避難生活を始めました。彼は湖北や安徽などで5年間の流浪生活を経て、21歳の時、ようやく故郷に戻りました。
29歳の時、彼は芸術の探求のため、故郷を離れ、杭州や蘇州、上海などを回りました。最初の2年は詩人・兪曲園について文字学や修辞学を学びました。その後、蘇州で著名な書道家・楊藐翁について、書道の研究に励みました。同時に、彼は任伯年、張子祥ら芸術界の名高い人たちや収蔵家の呉平斎、?盦らと交流を重ねることで、視野が広がり、学術教養も大いに高まり、芸術的な表現力も進歩していきました。
呉昌碩は詩や書道、絵画、篆刻いずれにも精通する芸術家です。そのうち、絵画が最も有名で、また書道に最も造詣が深かったといわれています。また、詩は書道と絵画の上達を促し、篆刻は書道と絵画の延長線上にありました。この四者はそれぞれ独立して存在するのではなく、互いに補完しあい、密接な関係を持ちながら、芸術家・呉昌碩が完成されていくのです。
1913年、金石を研究する組織「西冷印社」が正式に発足し、各地の金石学者が次々に、この組織に加入しました。呉昌碩はその実力と影響力で「西冷印社」の会長に選ばれました。「西冷印社」は毎年の4月5日の清明節と旧暦の9月9日の重陽節に集会を行うほか、不定期的な学術報告会や討論会、作品展示会などのイベントを行いました。さらに、文物の収集と保存、学術出版物の発行などわが国の文化芸術の発展に大きく寄与してきました。そして、その核として呉昌碩は芸術界の発展に力を尽くし、その功績は後世にも伝えられているのです。
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