寥仲ガイ(1877ー1925)は辛亥革命の指導者、また国民党創設者の一人です。アメリカ・サンフランシスコの華僑一家に生まれ、東洋文化と西洋文化が融合した家庭で育ちました。1893年、父親が病死したので、母親と共に故郷・広東省恵陽に戻りました。
その後、親族の助けにより香港の「皇仁書院」で系統的な西洋学の教育を受けました。1897年、香港出身の女性・何香凝と結婚し、「皇仁書院」卒業後、1903年に日本の早稲田大学経済学部に留学。ここで革命思想の影響を受けて、中国留学生によるロシア反対運動に参加しました。
孫文との出会いは寥仲ガイにとって、人生最大の出来事だといえます。1905年、同盟会が東京で発足し、寥仲愷と何香凝が共にこの組織に加入し、初代の幹部となりました。
第二次革命後、孫文を含む多くの革命家が再び日本に亡命しました。1914年、孫文は東京で「中華革命党」を結成し、寥仲ガイはこの党の組織を固めるため、全力を挙げ、同時にこの党の財政を担当する副部長となりました。1919年、孫文は「中華革命党」を「国民党」に改称し、『三民主義』を党是と定めました。1923年、孫文がソ連共産党と連携する方針を決め、寥仲ガイは積極的にこうした活動に参与しました。
1924年から、寥仲ガイは「黄浦軍校」の設立に奔走しました。「黄浦軍校」は中国近代史上初めてとなる、革命のための軍事人材を養成する学校です。1925年5月5日、孫文を総理、蒋介石を校長、そして寥仲ガイが軍事代表を務める「黄浦軍校」が正式に開校し、この三人が学校の最高指導者となりました。その後、寥仲ガイは、この学校の発展に大きく寄与するのです。
1925年8月、寥仲ガイは国民党の右翼勢力に暗殺されました。48歳でした。
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