夕べ、また祖母の夢を見ました。「今晩、一緒に寝ましょう」と私が言うと微笑むおばあちゃん。
私と祖母は、中国55の少数民族の一つ、「シェー族」です。シェー族は主に中国南方の福建省と浙江省に住んでいて、全国におよそ70万人。民族特有の言葉、シェー語を話し、文字は漢字。独特の文化と風俗習慣を持っています。
祖母は今年、82歳。今でも私の生まれ故郷、浙江省の水閣村に住んでいます。野菜やお茶を作るのが仕事。まだまだ現役で毎日忙しく働いています。
いつからかは覚えていないですが、水閣村に戻るたびに、必ず祖母と一緒に寝るようになりました。枕を並べ、寄り添いながら、真っ暗な部屋で色々おしゃべりをするのが楽しみです。村の昔話、遠くにいる親戚の話などなど。
4月下旬、私は取材のため故郷に帰りました。いつものように祖母は道端でじっと、私の帰りを待っていてくれました。
すでに昼ごはんを済ませていましたが、家の裏山でとった新鮮なタケノコがあるからと、さっそく味見をさせてくれました。美味しい!小さい頃から私が慣れ親しんだ味です。
楽しみにしていた夜が来ました。今回の取材の目的の一つが、シェー族の文化に関してでした。寝床について、私はさり気なく、祖母に聞いてみました。
「おばあちゃん、シェー族の民謡とか知ってる?」
わたしが子供の頃、祖母はよく昔話を話してくれましたが、一度も歌声を聴いたことはありませんでした。
祖母は意外にも「歌えるよ」と答え、ところどころ思い出しながら、ゆっくりと歌いはじめました。先祖の歌から、十二支の歌、そして恋愛の歌も。祖母は学校に行ったことがありません。だから字を読むことはできません。でも、たくさんの民謡を知っていて、長い民謡でもはっきりと覚えています。民謡を歌ったのは45年ぶりだったそうですが。
そして民謡にまつわる昔の思い出を懐かしく語ってくれました。シェー族は歌が大好きな民族です。お正月はよく親戚の家に集まり、灯りをともして、徹夜で民謡を歌い続けたそうです。また男女が気持ちを伝え合うときも歌が用いられました。
ほとんどが即興の歌、つまりその場で思いついた歌詞を歌い上げるというもので、一人が歌うと、それに対して、また相手が返歌を送る・・という形です。男女が歌を送りあい、そのうちに恋に落ち、結婚した人もいたそうです。おばあちゃんは、一時間以上歌い続けました。その歌はMDに録音してあります。
そんな祖母は若い頃、大変な苦労を重ねました。でもよくこう言います。「若いうちの苦労はどうってことはないよ。今がとても幸せだから」
1925年、貧乏な農家に生まれた祖母は、生後まもなく、将来のお嫁さんとして、ある家庭に引き取られました。しかし、その将来の「夫」となる男は立つこともできない病の身でした。将来を悲観した祖母は、その家が嫌で嫌でたまらず、一生懸命に反抗した結果、18歳のとき、その家の養女として、我が家に嫁いできたそうです。その相手が私の祖父です。ちょうどその頃、祖父は、子供二人を残して、奥さんを亡くしていたのです。
祖母は翌年、母を生みました。しかし、不幸なことに、その後三年のうちに、祖父とそのお母さんは、相次いで、亡くなったのです。一家の大黒柱を失った我が家は、21歳の祖母と幼い子供だけの家族になりました。祖父が亡くなったあと、夢に出てきたそうです。祖父はその中で、「子供たちの面倒をよく見てくれ」と祖母に言いました。
その後、我が家には、また入り婿が来ました。働き者の祖母は、畑仕事に精を出し、新しいおじいちゃんと共に、一生懸命、子供たちを育てました。そして、今では五世代の大家族となったのです。
「この家に来るまではいろいろ苦労をしたけれども、二人のおじいちゃんが優しくしてくれたよ。」と祖母は言います。
数年前、十歳上の「二人目の」おじいちゃんが亡くなりました。今でもよく夢に出てくるそうです。
小さい頃、私が泣いている時、いつもやさしく私の頭を撫でてくれたおばあちゃん。
私たち三人姉妹を連れて、お茶摘みに行くおばあちゃん。
今でも毎年、お茶を作って送ってくれるおばあちゃん。
毎週、電話で私と会話を楽しむおばあちゃん。
祖母の優しい微笑を思い出すと、私にはなにも怖いものがありません。そして若い頃苦労を重ねた祖母には、末永く元気でいてほしい・・そう願っています。
祖母と民謡を楽しむ
祖母は、「三国志」の物語、劉備と張飛、関羽が、義兄弟の契りを結ぶという内容の民謡を歌ってくれました。
そして、歌の集まりで、若者に相手にされない年配の人の歌、『俺のこと、年寄りと言わないでな、かつて、俺も十八歳だった』
お客さんを引き留める歌、『ご飯、もう一膳、食べなさい。
お酒、もう一杯どうぞ』などなど。
(文:藍暁芹、メールアドレス:ran_cri@hotmail.com)
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