第26回オリンピック大会の誘致に動いたのは、アメリカの都市だけでもアトランタ、サンフランシスコなど5都市。1988年4月29日、米オリンピック組織委員会総会で、アトランタがアメリカの代表に選ばれた。そして、アテネ(ギリシア)、ベオグラード(ユーゴスラビア)、マンチェスターイギリス)、メルボルン(オーストラリア)、トロント(カナダ)など各国の候補地との誘致合戦が始まった。
第26回大会が行われる1996年は、アテネで現代オリンピックが始まって100年という記念の年に当たる。オリンピックを発祥の地に戻して100歳の誕生日を祝おうと、アテネは、『1996、アテネへ』というスローガンを掲げ、熱烈な誘致運動を展開した。一方、最有力候補の一つだったアトランタは、『IOCの選択を尊重する』とのスローガンに定め、アテネに対抗した。しかし結局、最終投票で、アトランタは、51対35で、アテネに勝ち、開催権を得た。
アトランタ大会では、ソフトボール、ビーチバレー、女子サッカーが初めて正式種目となった。またサッカーでは、これまで23歳未満のみとしていた出場資格を緩和し、「オーバーエイジ制」を導入して、3人まで23歳以上の選手の出場を認めた。また自転車もプロ選手に門戸を開けた。
合わせて26競技271種目が設けられた。IOC加盟197の国と地域が全て大会に参加。出場選手数は10318人(女子が3512人)で、代表団の数、出場者数、競技数、いずれもこれまでの最多を記録した。またマスコミ関係もペン記者5695人、放送記者9413人が携わり、またボランティア47466人が運営に関わった。
大会期間は7月19日から8月4日までの17日間。陸上、水泳、重量挙げ、射撃などの種目で24個の世界記録が出た。
中国は、選手309人を始めとする495人の代表団を派遣した。85%の選手がオリンピック初参加で、平均年齢21.7歳の若いチームだった。中国代表は出場した26競技153種目で、金16個、銀22個、銅12を獲得し、アメリカ、ロシア、ドイツの3強に続いて、総メダル数4位につけた。
また興行面でも、大きな成果を挙げた大会だった。販売された入場券は861万枚。競技場への入場者数は史上最高であった。そして、期間中、オリンピックパークでは1000人の歌手が、567回のコンサートを催し、延べ530万人が訪れた。
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