第25回オリンピック大会の誘致に動いたのは、パリ(フランス)、アムステルダム(オランダ)、ブリスベン(オーストアリア)、バーミンガム(イギリス)、ベオグラード(旧ユーゴスラビア)バルセロナ(スペイン)の6都市。バルセロナは、1924年、1936年、1940年の大会の招致を目指したが、いずれも実現せず、今大会は悲願のオリンピック開催に向け、精力的な招致活動を行った。その結果、1986年10月17日ローザンヌ(スイス)で行われた第91回IOC・国際五輪委員会総会で、バルセロナは念願の開催権を得た。
バルセロナは、国際的に有名なリゾート地で、「地中海の中の真珠」と呼ばれている。
オリンピック聖火は、オリンピア(ギリシア)で採取され、その後、汽船でスペインまで運ばれ、スペイン全体をくまなくまわった。リレーコースは全長3964キロ。43日間かかった。聖火ランナーには、初めて外国人が加わった。このうち、中国大陸からは6名、中国台北からも2名が参加した。IOCのサマランチ会長(当時)も聖火ランナーを務めた。IOC会長としては初めてとなる。
開幕式は、1992年7月、メインスタジアムで行われ、スペインのカロス国王、IOCのサマランチ会長をはじめ、24ヶ国の首脳が出席。太平洋上空の衛星を通じて、世界各地35億人に向け、開幕式が生中継された。
最終ランナーを務めたのは、1984年、1988年のパラリンピックで、アーチェリーの金メダリストとなったアントニオ・レベロ氏(スペイン)。彼の点火の方法は得意のアーチェリーにちなんだものだった。まず、トーチの聖火をアーチェリーの矢先に点し、そして、70メートル離れた聖火台(高さ21メートル)に向け、矢を放った。矢は絶妙の放物線を描いて、見事、聖火台に的中。赤々と聖火が燃え盛り、会場は大いに沸いた。
バルセロナ大会では、野球、バトミントンの2競技、女子柔道など20種目が新設され、合わせて28競技257種目が設けられた。169の国と地域の9367人(女子2708人)が大会に参加。ボイコットした国はなく、IOCのメンバー国全てが選手を派遣した。また東・西ドイツの五輪委員会が合併して、一つのメンバーとして大会参加。旧ソ連に所属したメンバー国のうち、12ヶ国が各方面の斡旋を得て、『ロシア連合体』として大会に参加した。国別では、アメリカの537人を筆頭に、次いで『旧ソ連』の472人、そして、ドイツの463人と続いた。報道面では、13082人の記者(新聞・雑誌記者が5131人、放送記者が7951人)が携わり、また、34548人のボランティアが大会運営の中核として活躍した。
バルセロナ大会では、初めてプロのバスケットボール選手の出場が許された。これにより、世界最高峰のバスケットリーグ、NBA・アメリカバスケットボール連盟のスーパースターたちが、初めてオリンピックの舞台に姿を現すことになった。マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソンなどを始めとするアメリカ『ドリーム・チーム』が世界中のファンを熱狂させた。彼らは圧倒的な強さで金メダルを獲得するとともに、改めてバスケットボール、そしてNBAの魅力を世界中に伝えたのである。
この大会で、陸上3種目、水泳9種目、アーチェリー5種目、自転車2種目で、合わせて19個の世界記録が出た。『ロシア独立国連合体』は、金45個、銀38個、銅29個で総メダル数トップ。アメリカが2位、ドイツが3位となった。
中国人選手251人(男子118人、女子133人)は、サッカー、ホッケー、野球、ハンドボール、馬術など20種目の競技に出場。金16個、銀22個、銅16個を獲得し、『ロシア連合体』、アメリカ、ドイツの3強に続いて、メダルランキング第4位に躍り出た。
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