オリンピック大会の運営資金が膨張し、そして政治的な要素も助かったため、最初に第23回ロサンゼルス大会の誘致に動いたのは、ロサンゼルス(アメリカ)、テヘラン(イラン)だけだった。しかし、途中でテヘランがあきらめたので、1978年のIOC(国際五輪組織委員会)の年次総会で、ロサンゼルスは、ライバルなしで、1984年第23回オリンピック大会の開催権を獲得した。
1932年、ロサンゼルスは、第10回大会を開催したことがあるが、52ぶりにオリンピック聖火は、再びここに灯った。ロサンゼルスは、パリ(フランス)、ロンドン(イギリス)に続いて、夏期オリンピック大会を2回開催した都市になっている。
この大会で、21競技の221の種目が設けられた。140の国と地域の6797人(女子が1567人)のアスリートが参加した。第16回メルボルン大会の前に中国大陸五輪組織委員会は、台湾のいわゆる『中華民国五輪委員会』が除外されなかったことで、二つの中国の政策に反対するとIOCからの脱出を声明した。ロサンゼルス大会で、中国大陸の選手が28年ぶりに五輪の会場で姿を現した。225人の大陸の選手が参加した。選手が一番多かったのは、開催国アメリカで622人、続いてカナダの483人、次いで西ドイツが444人だった。
7月29日、射撃のピストル競技で、最初の金メダルが誕生した。中国の許海峰選手はその幸運者となった。また、彼は、1932年第16回大会に参加して以来、中国選手の初めての輝かしい五輪金メダリストになった。
フェンシングの女子フルーレで、25歳の椉菊傑選手が強豪を差しおいて、金メダルに輝いた。これも、アジア出身のフェンシングでの初めての金メダリストとなった。
男子体操では、李寧選手は、床、あん馬、つり輪で3個の金メダルのほか、2個の銀メダルと1個の銅メダルを獲得し、メダルが一番多い選手となった。
8月8日女子バレーの決勝戦では、中国代表は、3対0でアメリカをストレートに下し、表彰台のトップに登り、1981年のW杯、1982年の世界選手権に続いて、3連覇を果たした。
第23回ロサンゼルス大会では、中国は、金15個、銀8個、銅9個で、メダルランキングベスト4に入った。開催国アメリカは、金83個、銀61個、銅30個で、トップ、開催国の有利さを発揮した。その金メダル数も、4年前の旧ソ連の80個を超えた。ルーマニアと西ドイツは、それぞれ2位、3位だった。
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