1976年の第21回大会を開催するまでに、カナダのモントリオールは、オリンピック誘致に5回動いたが、いずれも失敗だった。特に1972年第20回大会の誘致をめぐる争いでは、1票差でミュンヘンに敗れ、おしくも開催を逃した。しかし、1970年のアムステルダム総会で、激烈な誘致合戦の末、ロサンゼルス(米国)、モスクワ(旧ソ連)、フィレンツェ(イタリア)を破って、ついに念願の開催権を得たのである。
モントリオールは、カナダ最大の都市の一つで、当時人口が300万人。誘致成功後、巨額の資金を投入して、町北部にオリンピックセンターを設置し、スタジアム、水泳館、自転車競技場、選手村を新築するなど準備を重ねた。
しかし、不景気、価格の暴騰のため、赤字が出た。建設も一時的に中止になった。幸い、各方面の協力で、開幕一ヶ月前に、主な体育施設がやっと完成した。
今大会は、人種差別問題など、国際的な政治問題の続発で参加国が激減する。116の国と地域がエントリーしたものの、最終的には92の国と地域の参加にとどまった。参加選手の数は6028人(女子1247人)。ちなみにマスコミの記者数は7800人だったから、それよりも少なかったことになる。国別では、アメリカの425人を筆頭に、ついで開催国カナダが416人、そして旧ソ連が409人。アンドラ、パプアニューギニアなどの4ヶ国が初めて選手を派遣し た。
大会は、1976年7月17日から8月1日にかけて行われ、21競技198種目が設けられた。そのうち、60種目で大会記録が更新され、33の世界記録が生まれた。
モントリオール大会は、旧ソ連が金49個、銀41個、銅35個で総メダル数1位となった。アメリカが旧ソ連に敗れただけではなく、2位も、金40個、銀25個、銅25個を獲得した東ドイツに奪われた。さらに東ドイツは、陸上、水泳の金メダル数が旧ソ連を上回った。トップの旧ソ連も危機感を感じる大会となった。
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