1963年、IOC・国際五輪組織委員会は、ドイツのバーデンバーデンで第60回会議を開き、候補地の4都市、メキシコシティ(メキシコ)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、デトロイト(アメリカ)、リヨン(フランス)の中から第19回大会の開催地を検討した。その結果、メキシコシティが選ばれた。
メキシコの首都メキシコシティは、世界でも大規模な都市の一つ。経済力の高まりに伴って、人口が激増し、1968年当時で、すでに人口600万人に達していた。
メキシコ政府は、オリンピック開催を非常に重視し、5360万ドルを大会用施設に、1億7584万ドルを都市建設に投入した。メインスタジアムは、選手村から4キロに位置し、8万人を収容。電子掲示板、電子タイマーなども揃う当時でも先進的な会場であった。また、全天候型トラックの採用、全世界へのカラー生中継などは史上初。
大会は、1968年10月12日から27日まで行われ、29競技172種目が設けられた。112の国と地域から5530人(女子780人)選手が出場。出場国が初めて100を超えた。バラグアイ、クウェート、リビア、ギニアなどの14の国や地域が初めて選手を出した。選手数が最も多い国は360人のアメリカ、次いで旧ソ連が317人、続いてホスト国のメキシコが277人。
開幕式の聖火ランナーには、初めて女性を起用。メキシコのエンリケッタ・バリシオ(当時20歳)が聖火を点した。
メキシコは、その地理的条件のため(高度が高い)、特にトラック競技と跳躍種目で、数々の奇跡的な記録が生まれた。男子の100m、200m、400m、幅跳び、4x100mリレーで次々と世界記録が更新され、以後、かなりの長期間、それが破られることがなかった。200mが11年、100mが15年、400mが20年、幅跳びが23年、4×100mリレーは24年後、ようやく次の「世界記録」が誕生する。
中国の「大陸」選手団はIOCの「二つの中国」政策に反対して、ボイコットした。
台湾は、この大会に43人(女子8人)の選手を派遣。陸上(11人)、ボクシング(3人)、体操(4人)、自転車(5人)、射撃(8人)、水泳(4人)、帆船(3人)、重量あげ(5人)に出場している。そのうち、紀政が女子80mハードルで銅メダルを獲得した。
メキシコシティ大会は、アメリカが金45個、銀28個、銅34個で総メダル数1位となった。旧ソ連が金29個、銀32個、銅30個で続き、日本が金11個、銀7個、銅7個で3位となる。
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