今大会の誘致に動いたのは、オーストラリアのメルボルン、アルゼンチンのブエノスアイレス、カナダのモントリオールなど10都市。1949年カイロでのIOC(国際五輪組織委員会)年次総会で、幾度かの投票を行い、最終投票でメルボルンが1票差で、ブエノスアイレスを破り、第16回大会の開催権を得た。オリンピックを欧米以外の都市で開催するのは初となった。
メルボルンは、オーストラリアではシドニーに次ぐ、第2の都市で、主要な港がある交通の要所。大会期間は1956年11月22日から12月8日まで。これは、史上最も遅い時期の開催となる。
今大会は開幕前、馬術競技の開催をめぐって一悶着があった。大会に先立つウィーンでのIOC年次総会で、メルボルンの組織委員会は、馬術に使用する馬について「6ヶ月間の隔離検疫を受けなければならない」とした。しかし、そうすると、その期間、トレーニングを中断しなければならなくなる。IOCと豪州政府の交渉が決裂したことから、やむなく馬術競技に限ってはスウェーデンのストックホルムで行われることになる。(6月10日から17日まで)一つのオリンピックが2ヶ所に分かれて、しかも異なった期間に行われたのは、後にも先にも今回しかない。
今大会は17競技145種目が設けられた。67の国や地域から3184人(女子が371人)の選手が出場。エジプト、スペイン、オランダ、スイス、カンボジアはストックホルムでの馬術のみ出場した。またケニア、マレーシア、リベリア、フィジーなど7ヶ国が初出場。選手数はアメリカの298人を筆頭に、オーストラリアの287人、旧ソ連の283人と続く。
大会は11月22日、10万4千人収容のメルボルンメインスタジアムで開幕。オリンピック聖火は2万キロの道のりを経て、初めて飛行機で運ばれてきた。開幕式では陸上のロン・クラーク選手(豪)が最終ランナーを務め、メインスタジアムの聖火台に火を点した。ちなみに、このロン・クラーク選手は17回も世界記録を更新したものの、オリンピックではわずか銅メダル1個(第18回大会の10000キロ)しか獲得できなかった。この現象、つまり、優れた選手がオリンピックで、実力を期待通り発揮できずに終わることを「クラーク現象」と呼ぶ。
今大会では16種目で世界記録が更新され、また56種目でオリンピック記録が出た。国別では旧ソ連が、金37個、銀29個、銅32個で総メダル数1位に躍り出た。続くアメリカは金32個、銀25個、銅17個で2位。"スポーツ2強時代"において、旧ソ連が総メダル数でアメリカを上回った初めての大会となった。また主催国オーストラリアは金13個、銀8個、銅14個で、ランキング3位だった。
さて、では中国はどうだったのだろう。1954年、アテネで行われたIOC年次総会での投票では、23票対21票で『中華全国体育総会』が「中国五輪委員会」と承認された。ところが、総会では、台湾のいわゆる『中華民国五輪委員会』が除外されなかった。つまり、一つの国に二つの五輪委員会が存在する前代未聞の事態が発生したわけである。そこで、IOCは二つの委員会がともに選手を派遣し、それぞれ『台湾中国』、『北京中国』という名称を使用するようにと勧告した。しかし、新中国は終始「一つの中国」の立場を堅持し、二つの中国の陰謀に反対している。台湾のオリンピック参加が明らかになったのを受け、「台湾の出場が許可されるなら、中国は今大会をボイコットする」とIOCに抗議した。しかし、IOCは「政治を理由とする抗議には応じられない」との回答を出した。1956年1月、中華全国体育総会は、声明を発表。IOCの「中国を分裂するやり方」に抗議し、第16回大会の参加を拒否すると宣言したのである。
台湾は、この大会に21人の選手を派遣。陸上、重量上げ、バスケットなどに出場している。
今大会の閉幕式はきわめて斬新であった。競技を終えた選手は大抵、帰国しているから、メルボルンに残っている選手はそう多くはない。そこで、閉幕式のスケジュールを効率的に運ぶため、豪州籍の中国人、ジョン・イアン・ウィング氏の提案により、選手入場は国別ではなく、自由に入場することになった。
閉幕の日の夜、メインスタジアムには各国の選手、役員が国境に関係なく、手を携えて、笑顔で競技場に入場してきた。戦いが終われば、国の隔たりなく、ともに健闘を讃えあう。そしてともに世界の平和と協力を願う…オリンピックの本来あるべき姿を象徴するこの「閉幕式の入場行進」のやり方は今日まで受け継がれている。
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