航空産業は平和産業 政経分離はゼッタイにできない!!
顧 洪彬(こ こうひん) 1963年中国江蘇省生まれ。84年広州外国語学院日本語科卒業後、中国民航北京管理局入社。87年中国民航福岡支店に移動。90年中国国際航空本社へ移動。94年中国国際航空大阪空港事務所へ移動、同年9月中国国際航空成田空港事務所へ移動。97年から03年5月まで中国国際航空福岡支店、広島支店にて勤務。03年6月から現在に至る、中国国際航空東京支店にて勤務
取材は張国清・北京放送東京支局長です。この取材内容は日本東方通信社の週間雑誌「コロンブス」2006年12月号に掲載されています。
ビジネスマンや観光客の増加で、日中間の航空路線はいずれも満席状態に。とりわけ年末年始には利用者数が激増する。そこで、今号では中国を代表する航空会社「中国国際航空」の顧洪彬東京支店長に日中の航空業界と今後の展望について聞いてみた。
ビジネスマンと個人客の増加で 日中路線は大幅に飛躍した
張国清:顧さんは、中国国務院直轄の航空会社である中国国際航空の東京支店長を務めています。まずは、中国国際航空に入社した経緯からお聞かせください。
顧洪彬:私は84年に大学を卒業しました。当時の中国では、大学も職業も国から配分(指定)されるのが決まりでした。ですから、私も中国政府からの指示で、現在の中国国際航空の前身である、北京管理局に入社することになったのです。当時は航空路線も便数も少なく、機種もほとんどありませんでした。ボーイングを持っていたのは、北京管理局だけでした。他の管理局はアメリカのダグラス、イギリスのトライデント、旧ソ連のイリューシンなどを使用していました。
張:入社当時はどのような業務を行っていたのですか。
顧:最初は空港のカウンター業務をしていました。その当時、中国に来る日本人は非常に少なかった。政府関係者や観光客が主で、ビジネスで訪中する人はほとんどいなかったと思います。仮に来ても規制があって、自由にアレコレと観光したり、ビジネスしたりということができませんでした。外国人が出入りできる場所はかぎられていましたし、外国人の宿泊できる場所も決まっていました。もちろんデパートもほとんどありませんでしたし、外国人が使える通貨は外貨兌換券といい、使える場所も制限されていました。ですから、大半の外国人は友諠商店といわれる外国人向けのデパートでショッピングをしたり、みやげ品を買ったのです。つまり友諠商店は外貨獲得の最前線だったのです。店内では中国各地のみやげ品だけでなく、世界中の輸入品が販売されていました。おかげで、友諠商店は何もしなくても儲かる時代だったのです。とりわけ掛け軸などがよく売れていたようです。ですが、92年に外貨兌換券の制度がなくなってからは、友諠商店はイッ気に下火になってしまいました。
張:顧さんは来日してから、どれくらいの期間を日本で過ごしているのですか。
顧:通算17年間になります。最初に来日したのは87年のことです。東京、長崎、大阪につづき、福岡支店のオープンが決まり、そこに配属されることになったのです。そこで4年弱働いてから、本社勤務に戻りました。それから3年後の94年にふたたび来日し、大阪の伊丹航空で働くことになりました。その後、成田、福岡、広島での勤務を経て、現在の職を得ました。
張:その間、日本経済はバブルを経験していますが、その頃の旅行客の動向はいかがでしたか。
顧:観光客が急激に増加しました。当時、中国に来た日本人はよく高級家具などを買っていました。人気のある地は北京、上海、西安、桂林あたりでした。今もその人気は変わりません。北京は中国の首都、上海は中国屈指の商業都市、西安は兵馬俑などの史跡が数多くあるまち、桂林は山水画の風景が残る風光明媚なまちです。ちなみに、10年前にこの4都市を1週間で周遊する団体ツアーを組むと30万円近くが必要でした。ですが、今なら10万円前後で行くことができます。しかし、団体旅行の件数は減少傾向にあります。そのかわり今は個人旅行が増加傾向にあります。
張:それにはどのような理由があるのですか。
顧:ひとつは03年にビザが不要になったことだと思います。そのため、日本人はカンタンに中国に行くことができるようになったのです。また、交通などのインフラが急速に整ったことも大きいと思います。それまでは、国内事情もあって日本人がひとりで中国を観光することはできませんでした。
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