"跟着感覚走"でめざすは中国
花坊さんは妖精のような雰囲気を持つ女性だった。中華圏のトップスターたちを撮影する凄腕のカメラマンと聞いていたが、本人は拍子抜けするほど気負った感じはない。涼しげな表情で淡々と語るが、聞いていると「えっ?」、「はぁ?」とこちらは目を白黒させてしまう。規定概念から解き放たれ、感性のままに自由に生きている、といった印象だった。そんな彼女のカメラマン人生は、もちろん"専門的に習ったことはなく自己流"で始まった。
93年、東京。花坊さんはクラブミュージックに夢中で夜のクラブで踊っていた。それまでは3ヶ月ニューヨークに滞在。東京での仕事は、宝石店の店員、喫茶店のウエイトレス。喫茶店は名曲喫茶で、客がほとんど来ないので読書し放題。ほかには"遺跡の発掘"。市ヶ谷駐屯地の尾張徳川家上屋敷跡で発掘調査をしていたのだという。曰く「三島由紀夫が好きで(割腹自殺をした自衛隊市ヶ谷駐屯地に)一度入ってみたいと思って。で、掘っていました」。こういう経歴からカメラマンとしての花坊さんの"原点"、"美学"を探ることもできそうな気もしたが、「あとバニー・ガールもやっていました」という言葉によく分からなくなる。
さて、夜のクラブで踊っていた花坊さんはそこでシャッターを切り自らプリントもしていた。94年、クラブミュージックの編集者に「写真撮っているの。じゃあ見せて」と声をかけられ、6人のミュージシャンを初めて仕事として撮影。その後、雑誌を目にした人から編集部に問い合わせが来るようになった。
中華圏との関わりは1998年。エリック・コットという映画監督が作品の制作過程を撮影するのに選んだのが花坊さんだった。その後、監督からうちの事務所に所属しないかと誘われ、香港に居を移した。そしてビビアン・スーなどタレントをモデルにコマーシャルや雑誌の仕事を精力的にこなした。こうした実績が認められ、今年4月からはNHKのテレビ中国語講座の表紙も飾っている。
「次は中国進出」だと花坊さんは言う。「中国はこれから未来が明るい感じ。どちらにでも行ける。どうにでもなれる可能性が大きいかな」。知人の香港のカメラマンが上海に事務所を持っていたりするから、仲間に加えてもらって…。ほっそりとした色白の花坊さんだが、実は心は熱い人なのだ。「この後は、来日中の王力宏の撮影なんです」、こちらがまたまた目を白黒させているのをよそに、花坊さんは丁寧で日本女性らしい挨拶をすると、渋谷の雑踏に消えて行った。(文.満永いずみ)
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