東京都台東区。慶応大学教授。趣味は二胡。70年代から北京放送今の中国国際放送局の日本語放送を聞き始めた。後に北京放送を聞く会の会員となり、会員の方々に中国語を教えたり、中国の事情を紹介したりしていた。大学では中国文学を教えていることから、中国によく行き、中国事情のことなら何でも知っているといっても過言ではない。今はもっぱらHPで北京放送を聞いているという北京放送にとって大変重要な存在である。
私は大学で中国文学を専攻致しましたが、専攻を決めた頃は、中国は文化大革命の真っ只中、日中国交が回復するであろうとは想像も出来ない時期で、日本で中国の情報を得ることはほとんど不可能でありました。そんな中で唯一民間人に与えられた窓口が「日本向けの北京放送」でした。中国が何故終戦当時から、わざわざ日本向けの放送を行っていたのか、定かではありませんが、様々な思いから少しでも中国の事情を知ろうと北京放送を聴いていた日本の視聴者が多くあったことは想像に難くありません。斯くいう私もその一人で、雑音交じりの短波ラジオから流れてくる「こちらは北京放送局です…」で始まる放送に遥か中国を思い、耳を傾けたものでした。
「北京放送を聞く会」という会に入ったことにより、北京放送と直接御付き合いさせて頂くことになりました。1972年に田中角栄首相と周恩来首相の握手で日中国交回復が実現しましたが、民間人が中国に自由に行ける様になったのは、それから10年余り先のことでした。それでも、当時の「北京放送を聞く会」の会員の方々は、いつか憧れの中国を旅することを夢見て、言葉の勉強や文化理解に非常に積極的でした。私が中国語の講師として会に紹介されたのはそんな頃でした。
当時、現在のようにあちこちに中国語教室があったり、中国人が住んでいるような時代ではありませんでしたから、北京放送局の全面的なバックアップを受けて、会では1974年から中国語講座夏季スクーリングを、中国人の講師を招いて東北、長野、関西、中国、四国、九州と全国各地で開催しました。この講座は非常に規模の大きなもので、中でも東京の代々木にあるオリンピック青少年総合センターでの講習会は講師が約20名、受講者は100名前後もいたように記憶しています。2泊3日の講習でしたから、早朝から、中国のラジオ体操の録音を聞きながら朝のラジオ体操をしたり、当時ではまだとても珍しかった太極拳を、上手な中国人講師に習ったり、また、間近で中国人に接することが出来るというので、受講者は授業時間外にも講師の先生方に質問をしたり、会話の実践をしようと中国語で話しかけるなどとても熱心で積極的でした。ところで、この講習には、夜の交流会の時間に合わせて北京放送が会場向けに特別番組を放送してくれるというこの会ならではの特別のイベントがありました。ある時、代々木青少年センターで聴く北京放送の電波状態が余りよくなく、聴いている途中で雑音が入り、しまいには全く聞こえなくなったことがありました。その時、会長の柘植さんがポケットからテープを出して、ラジカセで聞かせてくれたのには驚きました。このような事態を予測して、北京放送では事前にテープを作成して送ってくれていたのでした。こんなハプニングも今では大変懐かしい思い出になっています。
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