足元を見つめてこそ平和がある
秋田県大館市民、連合秋田大館地域協議会事務局長、NPO花岡平和記念会メンバー。
1949年、秋田県大館市生まれ。カールのかかったボーイッシュな白い髪。いつも静かに微笑んでいる。「秋田美人」という言葉がぴったりである。
今も暮らす故郷・大館は、戦時中、強制連行された中国人が蜂起し、厳しい鎮圧を受けた「花岡事件」(1945年6月30日。拷問、虐待等により、計986名中418名が死亡)として知られる地である。当時女学生だった彼女の母親はさらし刑現場の目撃者。小学校の頃から事件を知ってはいたが、長い間、「戦時中でやむを得ないことだったという認識しかなかった」。
1990年、事件の戦後解決を求めて、生存者らが大館を訪問。彼らの証言で「ショックを受け」、中国への集会や実地調査にも加わり、被害者たちと交流を重ねている。「現場を生きながら、何も知らなかった自分」に「強い罪意識に襲われた」。北京で行われた慰霊式で、生存者や遺族たちは殉難者の人数ある418本のキャンドルライトで作った「花岡」の文字を見て、「心がきりきり痛んだ」。
一方、過去に対して、母親の代の人は「花岡と聞くだけで、目を塞ぎ、耳を覆い、決して昔を語ろうとしない」。同年代や戦後生まれの知識人からも、「自分の代とは関係ない」、「もういいじゃないの」、「そっとしておいてほしい」の声が多い。しかし、中国人の掘った花岡川は今も地元を流れている。自分の通学路はかつて、強制労働に連れ出された中国人たちの通っていた道であった。
「もし、自分の足元にある花岡を見ないで、広島や長崎のために走り出したら、私の中の良心が恥ずかしい」と、足元をしっかり見据え、この考えの根源について、「私は人の子であり、母でもある。人間にとって、一番大事なことは、愛する人の健康と幸せである。自分のいるところの小さな幸せをしっかり守ること」、と淡々とした口調で語ってくれた。
損害賠償を求める花岡訴訟は2000年に、和解が成立した。しかし、被害者の「記念館の建設」の要求は和解では満たされていない。これを受け、地元民を中心に、大館で「花岡平和記念館」を作る運動が始まり、2002、NPO花岡平和記念会として発足。会計番の重任を木越さんが担っている。
が、加害者たちの家族は生きている。記念館の設立は、市のマイナスイメージの増幅に繋がると懸念する市民の声もある。いかにして、地元民をも取り込んで、持続可能な記念館を作り出すのか。今、一番苦心している課題のようである。
「戦争の記憶と同時に、当時、この鉱山の町で働いていた労働者の生活をも入れたほうが良い」、「入り口に、殺された補導員たちの家族に木を植えてもらいたい。木々の運ぶ優しい風を浴びて、入館してもらいたい」。日々刻々、アイディアを練っている。
「花岡事件は、一人一人の人間とそれに繋がる親、兄弟、家族の悲しみである」、「国家の戦争犯罪という視点から考えると、結局、皆、被害者だった。花岡記念館をキャパシティの大きいものにしないと、大館市民は救われないと思う。」
被害者と心の和解に達するため、故郷の「負の遺産」と今日も真摯に向き合い、精力的に頑張っている。(王小燕)
|