
北京放送との出会い
国清:初めて中国を訪れたのはいつごろだったでしょうか。
広岡:私が行きましたのは1986年で、当時、私の弟が仕事で上海に駐在していましたので、観光ではなく「探親」これは親族訪問ということでしょうか、そういう形で中国を訪れました。
実は、その前の年の5月に両親がやはり親族訪問をしていまして、北京や杭州にも旅行しました。それで、杭州の西湖の蘇堤を夢見心地で歩いたと言ったんですね。で、私も杭州に行ったんですけど、8月だったんでもう暑くて、大変だったんです。夢見心地で歩いてみたかったんですけど、残念でした。
で、上海も同時は今のように地下鉄があるわけでもないでしょうね、虹橋ビラにいたんで、外出するのにいつもタクシーをチャーターしました。ですから、街の中を歩いてみて回ると言うことはなかったのです。
当時はまた色々な制約がありましたし、また一週間程度の訪問でしたから、一般の中国人と交流することもなくて、ただ上海の日本人駐在員がどんな生活をしているのかということを見たにすぎませんでした。
私は関西にいたので大阪の伊丹空港から飛行機に乗ったんです。大阪から2時間足らずで行けるのに、なんて遠い国に行ってきたんだろうって、帰国した時に思いました。勿論北京放送のことは全く知りませんでした。
国清:でも、今は毎日のように北京放送を聞いておられるそうですね。北京放送を聞くきっかけは何でしょうか。
広岡:これは順を追ってお話しますと、結婚して東京に出てきたんですが、周りに知り合いもいないし、また子供がいないことなどもあって、何か習い事でもしてみようかなと思いました。もともと音楽が好きでしたし、今は二胡と言えば皆さんよくご存知なんですが、昔は胡弓と言っていました。胡弓は日本の楽器なんですね。私は中国の二胡の何とも言えない音色にずっと惹かれていたというか、大好きだったんです。是非二胡をやってみたいと思ったんですよ。
国清:二胡は私も一時やったことがあるのですが、難しく続けることができなかったのです。今、二胡ブームでその二胡を習う教室も急に増えてきましたね。
広岡:そうなんですよ。女子十二樂坊が来日してブームになったんです。それまでは今ほど沢山の教室はなかったんです。私は主婦ですので、なるべく家から近くて、平日の昼間に習えるところを探して、2002年11月から今の教室で習い始めました。
国清:その二胡教室はどこにあるんですか。習う人は多いですか。
広岡:場所はJRの錦糸町です。この教室は私が入った時は60~70歳代の生徒が5人で、挨拶程度の話はしましたが、年齢的なこともあって、特に親しくなるということはなかったんですね。 今は生徒も定員の14人になって40~50歳代の人もいますし、クラスも増えて3クラスになりました。習い始めて1年半くらい経ったころ、2004年の3月だったと思うんですが、一枚の二胡のCDを借りたことがきっかけで、中国で生まれて戦後日本に引き上げてきたという姉妹と親しくなったんです。
国清:広岡さんと何回も一緒に北京放送東京支局に来たことのある坂田さんご姉妹ですね。
広岡:はい、そうです。坂田さんは妹さんなんですが、この妹さんが中国音楽のCDや中国映画のDVDなんかを沢山貸してくれたり 、中国語や中国の歌を教えてくれたり、時々、切り絵をくれたりするんです。その中に北京放送の番組表や受信報告書の用紙も入っていたんです。それで、「放送を聴いて感想をこれに書いて出してね。」とさりげなく言うんです。会えばいつも北京放送の宣伝をするですね。ずっと後で分かったんですが、坂田さんは北京放送日本語部スタッフに「おばちゃん」とよばれていて、元「聞く会」のメンバーの一人だったんです。坂田さんは東京にいるお姉さんの横地さんと一緒に二胡を習うために月に一回東京に出てくるのですけど、伊東にいる時もパソコンのメールで北京放送のホームページの記事を送ってくるのです。最初に勧められた番組は黄競さんが担当されている「中国民族音楽」でした。少数民族の歌や二胡以外にもフールースというひょうたん笛なんかの珍しい楽器の音色を聴くことが出来たし、また紹介されるそれぞれの民族の生活習慣などはとても興味深いものでしたし、曲の解説は二胡をやっていく上で非常に参考になりました。
国清:今はパソコンで北京放送の番組を聞くことができるんですが、昔はラジオしか聞くことができなかったんですね。天気の悪い時やビルに囲まれたところ、また高い山のあるところでは北京放送の番組をキャッチすることが難しいとよくそんな話を耳にしますね。広岡さんはパソコンですか?
広岡:はい。短波ラジオを持っていなかったのでホームページで聴いていました。しばらくすると今度は「林涛さんのゴーゴー話は落語を聴いているみたいで面白いよ。」と言われて、落語好きの私はその言葉につられて、月の最後の木曜日に放送されるゴーゴー話も聴くようになったんです。
林涛さんの語りがとっても面白くて、毎週月曜日の「中国の酒」、今は「中国昔話」を楽しみに待つようになったんです。今では番組を録音してMDに残しているんです。 毎日ホームページを開いて放送を聴いている私を見て、夫が短波ラジオを買ってくれました。
国清:やさしいご主人さんですね。
広岡:今ではホームページでも当日のニュースなどを聴くことが出来るようになりましたが、以前は当日のニュースはラジオで聴いていました。
国清:インターネットが便利ですね。
広岡:そうですね、インターネットは音声がクリアに聴こえますし、曜日、時間に関係なく聴けますから便利だと思います。ラジオの場合、ニュース、中国リポート、時事解説までは受信状態も悪くないんですけど、その後の番組が始まると雑音が入って、聴きづらい時もあったりして、ラジオのアンテナをくるくる回したり、ラジオを持って部屋の中をうろうろしたりしたこともありました。 ニュースを聞く場合、その内容を聴くこと以外に、私には、もう一つの聴き方があるんです。それは担当アナの名前を当てることです。ニュースの最後に「担当は○○でした。」というのを聴いて、声と話し方の特徴で名前を覚えたんです。顔はホームページのスタッフ紹介を見て覚えました。
国清:すごいですね。声と話し方でどなたかすぐに当てることができるようになったことは。
広岡: 声を聴いたら顔も浮かんできますよ。ラジオの放送以外にもホームページを開けば、色んな記事を読むことができますし、それぞれの記事にコメントを書くこともできます。また番組の原稿が掲載されていたりするので、聞き逃したところや、分からなかった言葉なども確かめることが出来るので助かります。ホームページの果たす役割も大きいと思います。実はスタッフ紹介に名前だけで、写真の出ていない人もいるんですけど、昨年、東京で聴取者懇談会があって、東京支局や来日されたスタッフの方々にお会いした時に会うことが出来て、色々お話することができたんです。また、この懇談会で、元「聞く会」のメンバーの方々とも知り合いになることが出来ましたし、「北京放送を聴く会」、「日中交流クラブ」など北京放送を支えてこられた方々とも出会うことが出来ました。
国清:放送を通して沢山の方々と知り合うことができたんですね。
広岡:そうなんですね。知り合いが出来ればいいなと思って入った二胡教室で一人のおばちゃんに出会って、そして、北京放送を通して、今では沢山の知り合いができました。おばちゃんがいつも中国のこと、北京放送のこと、スタッフのこと、OBのことなどを熱く語る、というかいつも話しをするんですよ。長年の北京放送との真の交流があったからだと思っているんです。 今は両国の間に難しい問題もありますが、これから北京放送を通して、暖かい交流がずっと続いていくことを心から願っています。そして、北京放送日本語放送開局65周年、おめでとうございます。
国清:今日は有難うございました。
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