1979年、文化大革命が収束して間もなく、私は中国初の日本文学研究主として来日しました。当時の日本は文化環境、設備、情報などあらゆる面で中国より優れていましたが、最も私を驚嘆させたのは、日本に中国の伝統文化が脈々と受け継がれていたことでした。中国の古典はその殆どが日本語に翻訳され、中学と高校の「国語」教科書には「漢文」がそのまま使用されていました。『三国志』『西遊記』は不朽のべストセラ?で、その中のエピソードによる故事成語は日常生活の中で自然に使われていました。お盆や漆塗りのお碗、十二支のお守りなどは全て中国から伝来したものでしたし、町中の易占いの看板、文房具店の四宝(筆・ミ・紙,睨、書道やそろばん、私塾の広告を見ていると、まるで昔の中国にタイムスリップしたかのようでした。
このような日本で私は宮沢賢治を切り口にした日本研究を始めました。宮沢賢治の 「雨二モマケズ」は私に強い印象を植えつけました。作者の死後、日記から発見されたというこの詩は、私に自然に中国の英雄である雷鋒を思い出させました。「雷峰同志に学ぼう」という運動の中で育ち、「人民に奉仕する」と言う毛沢東の名文章を暗語させられ、国に忠実を尽くし、人民に職を尽くすことが同年代の人々の思想の根底をなしていたからです。しかし、二人のしている事は同じでも、その活動の質は異なるものでした。それは、宮沢賢治の詩で描かれた彼の生き様が社会日りイデオロギーに影響されず確立されたものだったからでしょう。それは政治、社会からの要求に縛られたものではなく、宮沢賢治が生涯敬信した法華経、そこから生じた、庶民のために、庶民と共に生きようとする彼自身の強い願望から来たものでした。彼は世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ないという信条を 「雨二モマケズ」の中で書いた日常生活と融合させ、また、生活の実践の中で得た思索の結果を詩と童話に表していました。
宮沢賢治は三次元かつ全方位の作家であると言えます。思索・実践と創作の三位一体が彼の存在を同心円状に拡大させました。彼はその中で自分を拡大、充実し、人間と自然の円満な共存の道を探そうとしていました。
早逝した彼は結局結論を出すに至りませんでしたが、模索を繰り返したその姿、その研究方法は私の人生にとって大いに示唆的でした。
私の名は孔子の「行に敏ならんと欲す」からとられており、私の座右の銘でもあります。文革の終結後、教育体制が完全に回復していなかったこともあり、私は、「労農兵学員」として大学を出て修士コースを終え、日本へ留学したのです。私は宮沢賢治を窓口に、日本と日本人をもっと理解し、中日両国の文化比較を行おうと考えていました。
宮沢賢治記念館の?番目立つところには西域・高昌の遺跡の写真が掛かっています。かつてここを経て玄製法師が西進し、鳩摩羅什の翻訳した仏典が内陸地に伝わりました。玄製法師によって伝えられた法相宗は中国では早々に失われましたが、日本でその教えは受け継がれています。鳩摩羅什の名前は中国でよく知られていませんが、毎年多くの日本人がそこを訪れ、彼に線香をあげています。宮沢賢治は病弱で外国に行った事は無かったですが、作品には砂漠の砂鳴り、上海の花火など中国の情景が生き生きと描かれていました。また、彼は仏教の衆生救済信仰を作品の根底に据え、天竺へ経文を取りに行く道程をモチーフとして使い、『西遊記』を創作のモデルとしていました。比ぶるに、私は留学前から日本留学を強く望んでいましたが、崇敬な気持ちは抱かず、沢山の資料を読んだにもかかわらず、富士山を描こうとする類の衝動は覚えませんでした。
宮沢賢治の作品は、かつての日本が中国文化を大量に輸入した隣国であり、また、両国の文化が相互に影響を受け、混ざり合ったことをはっきりと示しています。日本人で、無意識の内に中国文化の薫陶を受けなかった者はいないとさえ言えるでしょう。宮沢賢治の時代の人が中国文化に対する造詣は極めで深く、その教養は多元仁りでした。日本での見聞を通じて、私は中国文化が世界に誇るべきものとの自覚を初めて覚え、異国への中国文化の浸透を認識し、と同時に、白文化に対する無知と国境を越えた文化の力に対する理解不足を恥じました。改めて中国の歴史と文化を?から学ぼうと思うと同時に、日本文化の研究をしたいという抑えがたい欲求を感じました。
その後私はひたすら机に向かい、必死に勉強して、今日に至っています。
1930年代に魯迅の友人、銭稲孫は宮沢賢治の 「雨二モマケズ」と『風の又三郎』を翻訳し、中国に紹介しました。遅れて1980年、私が 『注文の多い料理店』を翻訳出版し、1986年に、『日本文学』に宮沢賢治を紹介する特集を出版、1996年に、宮沢賢治誕生100周年を祝うに当たり、『宮沢賢治作品集』を出版しました。20世紀最後のクリスマスに、私は御茶ノ水女子大学の学長・佐藤保教授より「宮沢賢治と中国」という論文で博士の学位を与えられました。21世紀のはじめの一年目に、その論文は日本国際言語文化振興財団理事長の枻川恵?先生のご理解の下で出版され、又、2005年に泄川恵?先生のご支援を受けて下宮沢賢治傑作案』と『宮沢賢治童話柴山が私の祖国で出版されることになりました。私は私と同じ文化背景、人生経験を持つ同胞たちが必ず、これらの訳本を通じて多くのものを得られるに違いないと確信しております。
このチャンスを借りて、湧き上がる思いを?言でまとめるなら、私を育てくれた中日両国、そこに住む方々、宮沢賢治の中国語版出版の為に全力を尽くしてくださった枻川恵一先生、翻訳者、仕事関係者、敬愛する読者達に心から感謝致します。
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