唐の初期には、中国の西域地区では長年続く戦乱のため、人々は安心して生活することができませんでした。当時の唐の皇帝・高宗は兵を送り、西域外からの侵入軍を破りました。高宗の死後、高宗の皇后・武側天が皇帝の座につき、則天武后と称して、中国史上唯一の女性皇帝となりました。紀元702年、則天武后は西域の統治を強化するため、北庭大都護府を設立しました。その後、15世紀になると戦乱によって北庭大都護府の大部分が破壊され廃墟と化してしまいました。
新疆ウィグル自治区ジムサル県宣伝部の羅瑜副部長は「新中国成立後、西北文化局や新疆文物管理委員会、博物館などが調査や文物の収集を行いました。そして、この地域で唐の時代の銅鏡、石の獅子像、陶器、磁器などを発見しました。1980年代には、中国社会科学院考古研究所は多くのどの像、壁画を発見しました」
北庭大都護府は歴史上重要な地位を占めてます。北庭大都護府は西域での唐の政権固めに重要な役割を果したすだけでなく、地元の牧畜民に安定した環境を作りました。新疆社会科学院歴史研究所古代史研究室の薛宗正主任は「北庭大都護府という古城は当時の社会文明の縮図です。この古城は一つの宝庫だと言えます。当時の絵画、彫塑など芸術品は本当に美しい」
ここ数年間、中国政府の関係部門はこの古城を全国重要文化遺産として一連の修繕工事を進めてきました。新疆ジムサル県文化局の郭夏局長は「北庭大都護府の修繕工事を3年から5年かけて実施している。この古城は非常に高い考古学的価値があるだけでなく、地元の観光業の発展を進めることにもなる。」
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