長い歴史を持つ新疆は豊富で多彩な民族音楽を育みました。その多くは、声楽家など芸術家の努力によって、世界の人々に伝えられ、歌われています。新疆芸術学院で教えているウイグル族のサイヤラ助教授は、その一人で、英語で新疆の民謡を歌うソプラノの第一人者です。
では、クイズです。
サイヤラさんは何語で新疆の民謡を歌っていますか。
「真っ白な白魚娘よ、あなたが好きな人はどこにいるの。
私は白魚に変身して、海を自由自在に泳ぎたい。
蝶々に変身してあなたの回りを飛び回りたい」
これは、サイヤラさんが英語で歌った新疆の民謡「白魚のような娘」の歌詞です
褐色の髪の毛、白い皮膚、そして民族的な特色のあるコーヒー色のニットツーピースを纏ったサイヤラさんは、芸術家が持つ独特の雰囲気を漂わせています。そして、すでに50歳を超えているとは思えないほど若く見えます。ソプラノの歌唱家になったのは、幼いとき、音楽好きな父母から影響を受けたためだということです。
1971年、16歳のサイヤラさんも多くの若者と同じように、農村へ行って労働訓練を受けました。地元のトルファンで、厳しい肉体労働が続きましたが、歌うのをやめることはありませんでした。サイヤラさんが18歳の時、父親は病気で息を引き取る前に遺言として、一生涯で最も残念なのは、娘が大学に行くのをこの眼で、見ることができないことだと言い残しました。その場で、サイヤラさんは音楽学院を目指すことを決意しました。「その後、私は、大学に行くという夢に支えられました。当時、家の裏庭に食堂があり、書籍がいっぱい積んでありました。私はよく中に入って、数学、物理、化学のテキストを見つけたりしました。これで高校の内容を独学しました。昼間は仕事をしながら歌い、家に帰ってからは夜中まで勉強するという日々を送りました。母親と兄は心配して、そんなに一生懸命にならなくていいとよく注意してくれました。でも、気を緩めることはありませんでした」とサイヤラさんは振り返っています。
1978年、中国で文化大革命中の10年間中止されていた大学入試が再開され、すでに23歳になっていたサイヤラさんは、西安音楽学院を志願しました。サイヤラさんの一所懸命で、美しく潤いのある声、流暢な息遣い、立派な表現力は、面接にあたる先生たちを興奮させ、見事合格しました。1980年代初め、サイヤラさんが大学を卒業した頃、中国の各分野は一斉に復興し、音楽も盛んになる時期を迎えました。サイヤラさんの才能はすぐ認められました。
1988年、サイヤラさんが初めて収録した新疆民謡アルバム「渇望」が発売されました。これを聴いた上海音楽学院の教授の一人は、「彼女の歌声は、鈴の音(ね)のように澄んでいて、透き通っている」と評価し、新疆の歌を世界に紹介すべきだと称えました。
「満月の夜、あなたと公園の芝生を散歩していたことを覚えている。私たちはおしゃべりしたり、見つめ合ったりして、美しい夜を眠らずに過ごした」。これは歌「思い出」の歌詞です。
その後、サイヤラさんは、イタリア、チュニス、モロッコなど十数カの国や地域を訪れ、新疆の民謡を歌いました。こうした経験はサイヤラさんの視野を広め、歌についてより深く考えるようになりました。
ところで、1980年代、幸いなことにサイヤラさんは、世界でもよく親しまれている「草原情歌」の作者である王洛賓先生と出会い、英語で歌うように、励まされました。
しかし、英語で歌うことは簡単ではありませんでした。英語を覚えるため、サイヤラさんは、毎朝早く起きて、二人の子供の世話をしてから、急いで歌の練習に出かけていました。家に帰ってからは、家族が休んだ後で、ピアノの練習を始めるしかありませんでした。王先生も自転車で十数キロ離れたところからやって来て、英語の指導をしてくれました。
新疆芸術学院の音楽教師になってから、サイヤラさんは数年来舞台で歌ってきた英語の歌を収録し、アルバム「ルーズラン」を出しました。
「美しい娘ルーズラン、あなたの歌はとても悩ましい
好きなルーズランを連れてバザールへ行って
かわいい帽子を買ってやりたい。
ルーズランだけが、喜びを感じさせてくれる」(歌「ルーズラン」の歌詞)。
1995年、イタリアで行われた国際民族芸術祭に新疆を代表して参加し、大成功を収めました。今、サイヤラさんは、毎日一生懸命指導に当たっています。教え子にとってサイヤラさんは次のように映っています。「先生はとてもまじめです。教え子は多いですが、一人一人の潜在力を分析してくれます。そして、一人一人の条件に合った、特徴を生かせる教え方を取ってくれます」。 (翻訳:朱丹陽)
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