「子ども、未来、光、希望、平和」
大江健三郎と中日青年作家交流会議
――中国社会科学院外国文学研究所許金龍研究員にインタビュー
日本と中国の新鋭青年作家の学術交流を目的にした「中日青年作家会議2010」(中国社会科学院外国文学研究所主催)が9月2日から5日にかけて、北京で開催されました。今回は、作家の大江健三郎さんの提案で行われてきた、「中日女性作家学術シンポジウム(2001年)」、「中日青年作家対話会(2006年)」に続く、中日青年作家の3回目のフェース・ツウ・フェース交流活動です。中国社会科学院外国文学研究所の許金龍研究員は、大江作品の有名な翻訳家として、会議開催を促すため、大江健三郎さんと外国文学研究所がどんな努力をしたか、大江さんと中国の関わりなどを語ってくれました。
「中日青年作家会議2010」会場の様子
■困難を超えて、永遠に交流会議を続けたい
――今回の「中日青年作家会議2010」は大江健三郎さんのご提案によって開催されたものですが、大江さんは両国の若者にどんな期待を寄せていますか。
日本は今、絶望的な社会環境に囲まれています。文部省の職員の中に隠されている右翼分子は教科書を改ざんし、日本の青少年教育を右傾化する恐れが大きいです。そんな絶望的な社会環境の中に希望をどのように見つけ出すのかということが、大江さんが「水死」という作品の中で考えている問題です。未来、子ども、新人には、必ず希望があると彼は信じています。魯迅が「狂人日記」で書いたように、「人間を食わない子どもはまだいるかも」しれないし、「他の人に食われずに、これから人間を食わない子ども」がいれば、この社会はまだ希望があると大江さんは考えています。そういう子どもたちに未来の希望を託しているので、大江さんは畢生の力を青年作家の交流活動に傾けています。今回の会議に熱意あふれる8ページの手紙も書いてくれました。
背景としては、かつて毛沢東主席、周恩来首相が、井上靖さん、加藤周一さん、井上ひさしさん、大江さんなどたくさんの日本作家と会談したということがあります。今では、大江さんの他の作家はほとんどなくなりました。今年の4月に、井上ひさしさんが亡くなった後、大江さんは友人を追慕して、毎日、寝る、食べる、読むだけのベッド生活を過ごしました。非常に残念なのは、井上ひさしさんは今年の10月に外文所を訪問する予定だったことです。私たちは、日本で大江さんとお会いしたとき、井上ひさしさんの代りに中日友好に熱心なベテランの作家を推薦していただこうと思いました。大江さんは頭を抱え、結局、誰の名前も挙げられませんでした。ベテランの作家ではなく、青年作家を育て上げようと願い、中日両国の青年作家の交流を強化しなければならないと彼は言いました。文学だけではなく、青年作家たちは未来の中日友好を担っています。彼らは未来の希望を担っています。これこそ大江さんの青年作家への期待ではないかと思っています。
――前回の中日作家交流会議から4年経ちましたが、そういう会議を開催するにはたくさんの準備作業が必要なようです。外国文学研究所は今回の会議のためにどんな努力をしましたか。
中日作家交流会議の発案は大江さんです。2001年9月の中日女性作家交流会議の後、2006年に青年作家交流会議が行われ、今回は3回目です。最初は、2年に1回、中国と日本が交互に交流会議を開く予定でしたが、2008年に日本での3回目の会議の開催が難しくなったため、主催権を中国側に譲りました。
われわれが会議の準備をする中でも、いろいろな困難にぶつかりました。まずは資金の問題です。日本も中国も、作家交流会議には政府の背景がないので、資金の工面がうまくいきませんでした。外国文学研究所はスポンサーと何回も交渉をし、作家たちが心地よい環境で学術交流できるよう最大限の努力をしました。出席作家の決定、テーマの選定、中日青年作家作品集の出版などにも力を入れました。雑誌「作家」の8月号は「中日青年作家交流会議2010」を特集し、今回の会議を全面的に紹介してくれました。事務所で徹夜で仕事してきたスタッフのおかげで、今回の会議は無事、予定どおりに開催できました。外国文学所は中日両国に対して誇りを持てるほど、全力を尽くしました。
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