グルメで築いた「香港の奇跡」
この7月1日は、香港特別行政区の祖国復帰13周年の記念日です。
アグネス・チャンはふるさと・香港に捧げた歌で、香港のことを「言葉では言い尽くせない良さ」があり、「永遠のドリームランドだ」と讃えています。このような香港で生まれ育ち、飲食店の経営を成功させ、この秋にも東京で店を出す女性企業家・王小玲さん(写真左)に話を聞いてきました。
王さんは1949年香港生まれ。両親の本籍は上海ですが、ご本人は香港生まれの香港育ちです。今、タンタン麺がおいしい飲食チェーン店「詠藜園」(えいれいえん)の董事長をしています。
「詠藜園」のスタートは1947年。王さんのお舅さんが九龍の山村で作った、タンタン麺を出す小さな店が始まりでした。それが今では香港に三店舗あり、年商5000万香港ドル(5億円以上)に達する香港グルメを代表する大企業になりました。この秋から、日本やアメリカ、中国本土にも相次いで出店する計画です。
――「詠藜園」の歴史を教えてください。
1947年、舅は戦乱を逃れて、江蘇省揚州から香港に移り、たどり着いたのが、同郷人のいた九龍の"钻石山"(ダイヤモンドヒル)でした。ダイヤモンドヒルは10年ほど前の再開発で、今はマンション群の聳え立つ住宅地になりましたが、当時は辺鄙な山村で、栄えておらず、映画制作所の撮影スタジオがたくさん散在する閑散とした土地でした。
舅は料理が上手でしたので、同郷人と組んで、出前で料理を届ける小さな食堂を作ったところ、たいへん繁盛して、当時の有名なスターや監督たちも常連になりました。しかし、まもなく大火で店が焼けてしまい、同郷人は「もうこんな商売はしたくない。やるなら、お前一人でやれ」と言い出しました。途方にくれた舅は方々仕事を探していましたが、見つけることができず、仕方がなく、2000香港ドル借金して小さな店を作ることにしました。
――店名の由来に、香港を代表する映画監督・李翰祥(リー・ハンシャン)さんがかかわっていたようですね。
李監督を始め、当時のミス香港を含む数多くの映画関係者が舅の店の常連でした。2000香港ドルを貸してくれたのは、李監督を始めとした映画人3人でした。店に「詠藜園」と名前をつけ、筆で看板まで書いてくれたのは李監督でした。
舅も姑もたいへん貧しい家の出で、読み書きができず、店名の漢字も読めなかったようですが、「監督がつけてくれた名前だから、間違いない」と大喜びしていました。
後日、私は李監督のご自宅に伺って、「詠藜園」の意味について教えていただくチャンスがありました。李監督は、「詠」は歌いだすの意味で、映画人はある意味声を出す仕事をしているので、それにかけたと言い、また、「藜」は『本草綱目』に収録された漢方薬で、空いたおなかに効く薬だという意味を込めていたとおっしゃいました。
――2000香港ドルは当時では、どのぐらいのお金でしたか。
当時の香港では平均月給は30~40香港ドルでした。2000ドルは小さな額ではありませんでしたが、それほど潤沢な資金でもなかったようです。とりあえず、寝るスペースと炊事場を建てましたが、それでもうお金がほとんどなくなり、屋根付きの食堂は作れませんでした。仕方がないので、舅は生垣で囲い込みをし、葡萄を植えてそのぶどう棚で天然の屋根を作り、また、ソーダ水を入れる木箱を活用して食事をする時の台に使いました。
そうして始まった一杯0.3香港ドルのタンタン麺の店は、60年後の今、年商5000万(約5億円)香港ドルを超える店舗にまで成長しました。これは香港の奇跡と言えます。(つづく)
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