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日本人スタッフのつぶやき199~枇杷膏的記憶・始(5)

2012-11-01 10:58:56     cri    
 (中原の「つぶやき」コーナーは、その半生を北京で過ごした一日本人のちょっとした物語となっています)

  当時の住宅事情、というのは、些か複雑であった。

 他の都市のことを知らないので『北京』限定で言えば、私たちがこの地での生活を始めた1993年当初、外国人は中国当局が指定した居住区のみにしか住むことができなかった。所謂『外交人公寓(マンション)』や企業が許可を受けて借り上げているマンションなどだ。前にも書いたとおり、当時は本国から派遣された駐在員がほとんどで、私たちのような個人での長期滞在はまれだったし、留学生と言っても現役の本科留学生は少なく、企業派遣や交換留学生などが主で、個人的に部屋を借りる必要性のある人間が無に等しかったこともその背景にあるように思う。

 もちろん、中には果敢にも指定居住区以外のアパートに部屋を借りる人も居たが、外国人であることがバレないようにアパートのエレベーターや廊下では一言もしゃべらず、生活音として周囲に漏れるだろう音楽や日常的な室内での会話にも細心の注意を払っていたようだ。そしてバレれば即つまみ出された(当然だ)。

 なぜならば、外国人を受け入れる居住区やアパートなどは、その居住区やアパート丸ごと公安に届出をし、認可を受けなければならないという規則があったのだ。確か2003年か2005年ごろまではそんな感じだったと思う。

 その後その規則は撤廃され、北京五輪が決まっていたこともあり、北京の外国人人口はズドンと増えたのだった。

 しかし当時の私たちの問題は、それではない。

 何せ目の前にあるのは、何も無いコンクリートの空間。

 1人につき小さなダンボール1つ分の身の回り品を持って来た以外は、全ての荷物がまだ海の上で船に揺られているところだ。船便が着くのは2ヶ月以上もあと。

 そしてガスも出ない部屋で食事やお風呂はどうしたもんかと考える余裕も無く、北京到着の翌日から家ではドカンドカンと内装工事が始まったのだった。

 私たち家族4人は、リビングの内装中は子供部屋へ、客間の内装中は両親の部屋へ…といった具合にぐるぐると家の中で小さな引越しを繰り返しつつ、朝8時から夕方5時まで内装工事のオジサンたちと共に暮らすことになったのだ。

 ~つづく~

(この物語はフィクションです。独断と偏見的解釈もあくまでストーリーとしてお楽しみください)

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